アートベース・リサーチ〈ABR〉とクリエイティブ・アーツセラピー──臨床実践・研究のための芸術による知の技法

アートベース・リサーチ〈ABR〉とクリエイティブ・アーツセラピー──臨床実践・研究のための芸術による知の技法
編者尾上明代
出版年月2025年8月
ISBN978-4-86616-227-0
図書コードC3011
判型A5判・並製
ページ数200
定価3,000円(+税)
内容紹介

芸術活動を通して自身や世界と向き合う豊かな実践であり研究法でもあるアートベース・リサーチ(ABR)。本書では,その源流ともいえる創造的芸術療法(クリエイティブ・アーツセラピー)を基にしたビジュアルアート,音楽,ダンス・ムーブメント,ドラマといった多様な芸術媒体を用いたワークショップ体験を通じて,人間や社会への理解を深め,ABRを体得することを目指した実践を紹介しています。
芸術の知を通して世界を変えようとする協働的な探究であり創造的な実践であるABRの魅力を伝える一冊です。

本書は,芸術的探究のもつ独特で人生を豊かにする力が的確に表現されている  ショーン・マクニフ(レズリー大学名誉教授)

主な目次

第1章 「芸術の知」と「芸術の癒し」による研究・探究 (尾上明代)
第2章 アートセラピーとABR:可視化された作品を介した自己探求 (倉石聡子)
第3章 音楽療法とABR:音の「聴取体験」における自己探求ワークショップの一事例 (高田由利子)
第4章 ダンスセラピーとABR:身体の知を拓くダンス/ムーブメントによる探究 (神宮京子)
第5章 ドラマセラピーとABR:演じることを通してものごとを探究する (尾上明代)
第6章 アートベース・リサーチを体験する:ABRの実践からの学び (伊東留美)
第7章 ドラマセラピーが異文化生活における対人関係問題に与える効果:多様な芸術表現による探究 (万珽)
第8章 “ドラマ”に出会った意味:「まゆとも」メンバーとの語り合い法とアートグラフィー (足立典子)
第9章 by your side 障害のある同胞を肯定的に捉えるきょうだいについてのアートベース・リサーチ:クレイアニメーション作品の制作を通して (尾﨑文音)


 

はじめにより

人類は太古から誰かに何かを伝える手段や自己表現として芸術を創造し,またそれによって個人の心身の苦しみは癒され,時には命が救われ,そして共同体が立ち直ってきました。現代においてもプロの芸術家はもとより,生きる表現として,また人生の楽しみのために芸術が欠かせない人は多いでしょう。映画を見たり歌を歌う等,芸術に触れることは多くの人々にとって,日々の疲れを癒し健康を保つための恩恵であると思われます。表現アートセラピストのKnill(1999)のことばを借りるとするならば,その癒しとは「魂の栄養」(p.49)です。Knillは,人間の身体に食物が必要であるのと同じように,魂や精神にも栄養や薬が必要であるとし,それは芸術活動であると言います。

アートベース・リサーチ(芸術の知による研究)は,芸術活動を通して自身や世界と向き合う豊かな実践であり,研究や探究の方法です。初めて聞いた方の中には「芸術がどのように研究方法になるのか」と思う方がいるかもしれません。しかし,多くの人がごく日常的に触れているであろう芸術が,人生における体験や人間そのものを理解することに,また社会におけるさまざまな事象を研究・探究し,新たな意味や知を生み出すことに使われることは何ら不思議ではなく,ごく自然なことだと捉えることもできると思います。

アートベース・リサーチと創造的芸術療法(=Creative Arts Therapy)
アートベース・リサーチ(以下ABR: Art-Based Research)とは,芸術活動を研究プロセス(データ収集・分析・評価・発表等)に組み入れ,その芸術を通してものごとを探究する研究法です。量的研究法のみでは明らかにできない知を補完するべく登場した質的研究法が,人文・社会分野で普及してきた中,芸術を使うABRはその次なる新しいパラダイムとされています(Leavy, 2020)。1990年代から米国で提唱され始め,現在は欧米を中心に世界各地で広がりを見せています。日本においては近年本格的に実践され始めました。ただし,ABRは単なる研究の方法論ではなく,それを超えた大きな意義ある社会的実践です。そのことも本書の実践報告や研究の実例を通して伝えることができれば幸いです。

ABRは芸術,教育,社会,臨床心理など,多分野の研究で採用されています。笠原(2019)は,ABRとは「芸術制作の特性を物事の探究や調査,意味や価値の創出に用いていこうとする,探究的で省察的な芸術制作の用い方であり,同時に研究の方法論」(p.117)としています。Leavy(2018a)が編集したABRのハンドブックにはさまざまな分野(ナラティヴ,自己エスノグラフィー,アートグラフィー,俳句,詩,小説,音楽,ダンス,ドラマ,演劇,美術,漫画,映画,ビデオなど)が紹介されており,またいくつかを組み合わせた研究・探究もあります。日本ではこれまで,主に美術制作,美術教育,社会学分野における研究・実践がなされ,日本におけるABRは今,成長の最中といえます。日本の研究者たちによるABRの理論や現在地,豊かな実践内容については,小松(2018),笠原ら(2019),岡原(2020),笠原ら(2022a; 2022b),Komatsu et al.(2022),小松(2023)などをお読み下さい。また上記のハンドブックが邦訳されています(岸ら訳,2024)。

無意識,想像,創造的プロセスの芸術的な探究としてABRを見ると,同様の概念に基づく実践は19世紀中ごろからあり,決して新しいものではありません。20世紀前半の精神医学や心理学分野において,フロイトやユングらが,特にイメージやビジュアルアート領域でその最も初期の基礎を作った人たちの例として挙げることができます(Kossak, 2013; Malchiodi, 2018)。ABRの出現に貢献したのは,①創造的芸術療法(Creative Arts Therapy,以下CAT),②芸術と学習に関する研究(特に神経科学),③質的研究法の3分野の発展である(Leavy, 2018b, p.6,筆者訳)とされ,CATが大きく関わっていることがわかります。

熊谷(1996)は「医術はもともと人間の病を治す(癒す)ための術(arsアルス)として生まれ,また人間はよりよく生きるための術として芸術(artアート)を持った」と述べ,この2つの源は本来非常に近いものであることを次のように説明しています。

古代ギリシアにおいて,太陽神アポロンは医術の神であると同時に音楽の神であった。ピタゴラスは医術による身体のきよめ,音楽による心のきよめを重視したという。諸芸術のもつ,心のカタルシス(浄化)効果を理論化したのは,医者の家に生まれたアリストテレスであった。そのはじまりにおいて,医療と芸術はたいへん親しいものだったのである。ともに「よりよく生きる」ためのアルスとして,とりわけ人間の心にかかわる精神医療と芸術のつながりはつよいはずであった。医療と芸術はしかし,次第にはなればなれになってゆく。気がつけば医者と芸術家は,およそちがう人種になっていた。(p.12)

また芸術療法が注目されてきたことについて,熊谷は「長い間離ればなれだった医療と芸術が,ここにきて再会を果たしたということだろうか」(p.13)と述べていますが,「およそちがう人種」である「医者」(またはセラピスト)と「芸術家」を融合し,一人二役的に務めているのが,CATのセラピストだといえるのではないでしょうか。

伊東(2018)は,ABRの究極の目的は真理の追究ではなく,意味を見いだすことにあるというEisnerの考えを紹介し,芸術家でもあるCATのセラピストによるABRの特徴を以下のように述べます。

芸術家は,日常に非日常を持ち込むことができる業を持っており,それは,これまでの視点を覆す「新しい見方」を社会に提示する業である。ABRは,アートセラピストの芸術家としての業を生かすことができる研究法とも言える。(p.207)

またMalchiodi(2018)は「CAT領域におけるABRの目的は,CATのセラピストが被援助者の人生を改善するような芸術を通した体験を発見し開発することである」(p.74,筆者訳)と言います。ABRの先駆者の一人McNiff(1998)は,CATは人間理解という大きな文脈の中で他分野の研究においても独自の貢献をすることができると主張し,ABRの重要な要素となる,芸術活動全体から得られる知を「芸術の知」(artistic knowing)という表現で総称しています。これまでの科学的知,分析的な知とは異なる独自の知です。それには,一人で作品と自分自身に向き合うこと,集団的な作品の制作過程,作品に使う材料との交流,その芸術作品がもたらす自己・他者間の内省などから得られるすべての知が含まれるのだと説きます。つまりABRは「芸術の知による研究」であり,芸術を使わなければ得られない知を生み出すものなのです。その特徴としてMalchiodi(2018)は「非言語的/潜在的な知,身体感覚的な知,右脳と右脳の対話による知」(p.78,筆者訳)をあげています。つまりABRのプロセスは,まさに芸術を媒介にして人生を探究するCATにおいて実践されてきたことと本質的に同じであるといえます。

本書と授業の内容
私は立命館大学大学院人間科学研究科において,2022年度よりABRの授業を開始しました。この授業の特徴は,研究法の一つを学ぶということだけではなく,自分や他者,また社会的事象を芸術を媒体として,また身体感覚を通して探索することの意味と重要性を理解してもらうことを目指している点です。心理学・臨床心理学・実践人間科学を学ぶために本研究科に入学した院生は,人間をより豊かに深く研究すること,また他者を心理社会的に支援する専門性を磨くことを目指しています。そこでこの科目では,人間理解の視点が増えて,新たな世界が開けるようにと意図して授業を進めてきました。

授業を組み立てるにあたり,上述したようにABRの学びにはCATの体験が必須であると考え,ゲスト講師を招き,ビジュアルアート(倉石聡子先生),音楽(高田由利子先生),ダンス・ムーブメント(神宮京子先生),ドラマ(尾上明代)のワークショップ(以下WS)を提供してきました。そして院生たちに,CATで使うツールやスキルがどういう効果をもたらし,どのような芸術の知が得られるのかという可能性を体験してもらっています。加えて日本のABRの先駆者である小松佳代子先生,岡原正幸先生,笠原広一先生,伊東留美先生をゲストに迎えてABRの理論や実践,博士論文の紹介等の講義をしていただきました。

本書の第2-5章では,各セラピストがCATの視点から上記の授業を解説します。日本ではCATの視点からのABRの書籍が今までありませんでした。そこで本書では,芸術を媒体としたセラピーの中で,自身の省察を繰り返しながらクライエントに気づきを促すことを専門とするCATセラピストのアプローチと姿勢,工夫等を紹介します。ABR実践者,また初めてABRに触れる方にささやかではありますが,CATを中心とした視点を提供できれば幸いです。読み進めながら授業のエッセンスを体験していただければと思います。第6章は,Lesley大学においてABRによる博士論文を執筆した伊東先生が,その論文の紹介,また実践や自己探究から問いが現れ,ABRによってその答えをどう探していけるのかというリサーチデザインの方法を提示します。各WSの章は,ある年度に実施した授業を基本として書かれていますが,場合によっては,他の年度における院生のリフレクションや講師の考察が含まれていることもあります。受講生は教室で受講し,尾上以外のゲスト講師はオンラインで参加して授業を行いました。第7-9章では,人間科学研究科・尾上ゼミの修了生による修士論文を本書のために書き直してもらいました。研究の具体的な実践方法がわかる形で提示します。尾上ゼミの院生たちは,ドラマセラピーや他の芸術をベースにしたABRに取り組んできており,その中から3人の多彩な研究をご紹介します。

尾上明代

編者紹介

尾上明代(おのえ・あけよ)
アナウンサーや役者としての活動(NHK・テレビ朝日等のニュースや教育・教養番組を担当)後,1999年,文化庁の新進芸術家海外研修員として渡米。イリノイ大学大学院College of Fine & Applied Artsで客員講師としての活動中にドラマセラピーと「運命的な出会い」をし,日本国内第一号のドラマセラピスト,そしてトレーナー(北米ドラマセラピー学会公認)となる。ドラマセラピーを,教育・臨床現場だけでなく,多くの人々が創造性を高めてより楽しく生きるための媒体として,命ある限り提供していきたい,という思いで活動を続けている。現在,立命館大学大学院人間科学研究科教授,東京大学教育学部非常勤講師,ドラマセラピー教育・研究センター代表。

著書に『心ひらくドラマセラピー―自分を表現すればコミュニケーションはもっとうまくいく!』(河出書房新社)など,訳書に『演じることから現実へ―ドラマセラピーのプロセス・技法・上演』(R. エムナー著,北大路書房)がある。


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