精神療法という治療技術の科学──右脳と感情調整

精神療法という治療技術の科学──右脳と感情調整
著者
訳者
アラン・N・ショア著
小林隆児訳
出版年月2025年11月
ISBN978-4-86616-239-3
判型A5判並製
ページ数576
定価8,200円(+税)

内容紹介

90年代の後半から始まる人間の心の研究領域の飛躍的な進化──脳の10年──を経て,神経科学は多くの真実を明らかにしてきた。本書は,そこから生まれた対人関係神経生物学をもとに,精神療法(サイコセラピー)のアート(治療技術)の科学性を解き明かし,古典的な心理理論を捉え直し,より科学的な精神療法のあり様を考えたアラン・N・ショアの大作である。
左脳の認知的共感から右脳の身体に基盤を持つ情動的共感へと舵を切ることをショアは求める。右脳精神療法,現代アタッチメント理論,神経精神分析,調整理論など刺激的なテーマを思索し続け,実践し続けているショアは,心理学者であり,精神療法の実践者であり,人間の心についての思想家でもある。本書は,そのショアの全貌がまとめられているものである。また,訳者による「アラン・ショア著作用語集」も本書に掲載。多くの臨床家に読んでいただきたい1冊である。

主な目次

主な目次
序 文──精神療法の新しいパラダイムに向けて

第Ⅰ部 感情調整療法(ART)と臨床神経精神分析

第1章 現代アタッチメント理論
──発達と治療における感情調整の中心的役割

第2章 関係外傷と発達途上の右脳
──精神分析的自己心理学と神経科学の接面

第3章 右脳の感情調整
──発達,外傷,解離,精神療法の本質的メカニズム

第4章 右脳の暗黙的自己は精神分析の核心にある

第5章 治療的エナクトメント
──右脳の感情耐性の窓での作業

第Ⅱ部 発達感情神経科学と発達神経精神医学

第6章 アタッチメント,感情調整,発達途上の右脳
──発達神経科学と小児科学の連携

第7章 ゾウはどのようにドアを開けているか
──発達神経行動学,アタッチメント,社会的文脈

第8章 アタッチメント外傷と発達途上の右脳
──病理的解離の起源

第9章 境界性パーソナリティは特に右半球障碍か?
──単一試行分析を使用したP3aの研究

第10 章 ボウルビィの進化的適応環境
──現在の米国文化の低下

第11 章 母子アタッチメント関係の臨床評価を導くための調整理論の使用

第12章 家族法とアタッチメントの脳科学
──家庭裁判所のレビューでインタビュー

訳者あとがき
アラン・ショア著作用語集

 

謝  辞

この10年間,私の著作が非常に多くの方々から好意的に受け入れられたことに,心から感激し,深く感謝しています。私の考えが与えた影響についての実質的なフィードバックは,さまざまな形でもたらされました。他の著者による多岐にわたる臨床文献や科学文献での多数の引用,世界中の聴衆との刺激的な対話,同業者からの直接的な関心や感謝の表明,そして,まだ会ったことのないさまざまな分野の方々からの,私の著作が彼らにとって個人的な意味を持ったことを伝える電子メールによる頻繁な連絡などです。
私の著作がこれほど広範囲にわたって反応を得られたことに対して,根本的に不可欠だった何人かの方々に感謝を述べたいと思います。イタリア語,フランス語,ドイツ語に『感情調整と自己の修復Affect Regulation and the Repair of the Self』を翻訳してくださったロベルト・スペツィアーレ-バリアッカRoberto Speziale-Bagliacca,ジャイルズ・デ・ライルGiles de Lisle,エヴァ・ラスEva Rassに感謝します。また,私の論文をスペイン語に翻訳してくださったアンドレ・サッセンフェルドAndre Sassenfeldにも感謝します。さらに,ダーシア・ナーバエスDarcia Narvaez,ルース・ラニアスRuth Lanius,バリー・レスターBarry Lester,ジョシュア・スパロウJoshua Sparrow,テッサ・バラドンTessa Baradon,ダイアナ・フォシャDiana Fosha,ポール・デルPaul Dell,ジョン・オニールJohn O’Neil,ジーン・ペトルセリJean Petrucelli,ジェニファー・マッキントッシュJennifer McIntosh,ラリー・ナザリアンLarry Nazarian,キャロル・トッソーネCarol Tossone,スザンヌ・ベネットSusanne Bennett,ジュディ・ネルソンJudy Nelson,ナンシー・バンダーハイドNancy VanDerHeide,ウィリアム・J・コバーンWilliam J. Coburn,チャールズ・カルリーニCharles Carlini,ジョー・パロンボJoe Palombo,リック・レオンハルトRick Leonhardt,ダン・シーゲルDan Siegel,ジョージ・ハラズGeorge Halaszといった,私の考えを多数の臨床の専門書や学術誌で発表する機会を与えてくださった編集者の方々とご一緒できたことを嬉しく思います。この10年間,ラッセル・ミアーズRussell Meares,ドミトリー・メルコニアンDmitriy Melkonian,ルース・ラニウスRuth Lanius,ゲイ・ブラッドショーGay Bradshawといった研究協力者の方々にも恵まれました。
数多くの重要な国内および国際的な学会発表を後援してくださった,マリオン・ソロモンMarion Solomon,ジェーン・ライアンJane Ryan,ジョー・トゥッチJoe Tucci,ボブ・キャシディBob Cassidy,ダン・ヒルDan Hillといった学会主催者の方々に感謝の意を表したいと思います。長年にわたり,ロサンゼルス,バークレー,ポートランド,シアトル,ボルダー,オースティンで活動している私の「発達感情神経科学と臨床実践に関する研究グループ」の臨床医たちとの交流から,私は恩恵を受け続けています。また,グループリーダーであるリンダ・チャップマンLinda Chapman,マーガレット・ロッソフMargaret Rossoff,デイビッド・ウィリスDavid Willis,サル・ジズSal Ziz,スー・マリオットSue Marriott,パット・オグデンPat Ogdenにも感謝を伝えます。
Norton社の「対人関係神経生物学シリーズ」の編集者として,すべてのシリーズ著者,そしてこのシリーズの目覚ましい成功に不可欠な存在であるNorton社の同僚デボラ・マルマドDeborah Malmudとの交流は,私にとって大きな喜びでした。この本の制作に尽力してくださったヴァニ・カンナンVani Kannan,ベン・ヤーリングBen Yarling,そして特にジーン・ブラックバーンJean Blackburnにも感謝します。
個人的なことになりますが,私の創造的な思索を支える背景を何度も提供してくれたヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトWolfgang Amadeus Mozartとジョセフ・ハイドンJoseph Haydenに感謝したいと思います。そして,私の子どもたち──数えきれないほど彼の専門的なコンピューター技術に頼ったデイビッドDavid,そしてコンピューターグラフィックの才能とこの本の表紙のデザインをしてくれたベスBeth──に感謝の気持ちを捧げます。
とはいえ何よりもジュディJudyへ。翼から翼へ,オールからオールへ。

 

解  題

本書はアラン・ショアAllan Schore著 “The Science of the Art of Psychotherapy”(Norton, 2012)の全訳です。これまでにショアは本書を含めて6冊の著書を出版していますが,4冊目にあたるのが本書です。最新刊である”Right Brain Psychotherapy”(Norton, 2019)と”The Development of the Unconscious Mind”(Norton, 2019)の2冊は同時に出版され,すでに小林隆児訳『右脳精神療法──情動関係がもたらすアタッチメントの再確立』(岩崎学術出版社,2022)と筒井亮太・細澤仁訳『無意識の発達──精神療法,アタッチメント,神経科学の融合』(日本評論社,2023)としてわが国でも紹介されています。
ショアは1943年生まれ,本年(2025年)82歳を迎えています。1964年,ロチェスター大学心理学部を卒業し,2年後にピッツバーグ大学大学院で修士号を取得しています。1970年,心理職として南カリフォルニア・カイザー・パーマネンテ・メディカル・グループという巨大な統合型医療ネットワークの精神科部門の主任心理士として勤務する傍ら,翌年,カリフォルニア州ロサンゼルスで個人精神療法家として開業しています。その後,彼は30歳代後半に途方もない決断をします。それまで勤務していた病院を辞め,開業の仕事も週5日から3日に減らし,向こう10年間一人で研究生活に入り,自宅近くのカリフォルニア大学図書館に毎週通い,心理学,精神医学の分野はもちろんのこと,生物学,化学,物理学などの各部門の専門雑誌で目にとまった論文をコピーして自宅に持ち帰り読み漁りながら,開業の仕事を続けるようになります。このような研究生活が可能になったのも妻でソーシャルワーカーでもあったジュディ・アランの協力があったからです。
この10年間で,彼は「諸領域間で重複する境界内で共有される本質的構造と,表面上は無関係な現象に見えるもののもとにある共通性」を見出し,「エネルギー調整の構造が生物学,化学,物理学の核心にあること」を発見し,「あらゆる包括的な発達モデルや臨床モデルは,その組織化の原理に集中している可能性があることに気づいた」といいます。そして彼の研究は「人間の乳児期の初期環境がその後の発達と精神病理発生にいかなる影響を及ぼすか」というテーマに収斂していきます。彼の関心はさらに拡大と深化を続け,ついには「生命体の始まりは,生涯を通じて,生体の内部および外部の機能のあらゆる側面の舞台となる」こと,そして「生物学的および心理学的構造の進化をプログラム化する遺伝子システムは,乳児の段階において非常に高い確率で活性化し続け,この過程は生後の環境に大きく影響される」が,そこで「重要なのは初期環境において最も重要な対象である主たる養育者と交わした初期の交互作用」であるとの確信に至り,「科学の主要な目的の1つは初期発達を理解することである」との広大なテーマを掲げることになります。
その中で生まれたのが処女作『感情調整と自己の起源──情動発達の神経生物学Affect Regulation and the Origin of the Self: The Neurobiology of Emotional Development』(Lawrence Erlbaum Associates, 1994)です。本書は神経生物学的研究が飛躍的に進展する契機となった20世紀末の「脳の10年」の直前に出版されています。いまだわが国では紹介されていないのですが,版を重ねているところをみると(2012年時点で14刷!),世界的には大きな反響を呼んだことが窺われます。
ショアの関心領域は発達心理学,神経精神分析,発達精神分析,関係精神分析,発達精神病理,臨床精神医学などは言うに及ばず,脳に関する膨大な神経生物学的領域をも網羅するほどで,この処女作では総頁数708の中で文献リストが165頁を占めています。
この処女作を皮切りに,彼の仕事は「調整理論,発達の包括的モデル,精神病理発生,暗黙的自己の治療」へと収斂し,ショアの全著作は「アタッチメントの神経生物学的調整モデルと同様に,発達神経精神分析,すなわち無意識の心の初期発達の研究」がテーマの中核となっていきます。その意味でも処女作はショアの仕事の要であり,その後のすべての著書はそれを敷衍したものということができます。
『自己の起源』の9年後,先のモデルを敷衍するかたちで,姉妹本『感情調整不全と自己の障碍Affect Dysregulation and the Disorders of the Self』(Norton, 2003)と『感情調整と自己の修復Affect Regulation and the Repair of the Self』(Norton, 2003)が出版されます。以上の3冊を彼は「感情調整」3部作と称していることから,彼の仕事の核心部分のすべてがこの3部作に込められているといってよいでしょう。
この3部作は,題名から推測されるように,『自己の起源』で自己に関する「発達論」,『自己の障碍』では情動発達においてアタッチメント形成不全によって損なわれる感情調整機能不全が生涯発達での多様な精神病理に繋がるという「精神病理発生論」,そして『自己の修復』では感情調整不全によって生まれる親子間の感情的絆の断裂に対して,双方向的感情調整によって修復を目指すという「治療論」で構成されています。
これらすべてに通底する彼の信条を端的に表現すれば,「人間の初期発達(主に生後1年半まで)の体験を通して獲得された(あるいは,されなかった)脳の構造と機能は,生涯発達を通して,その雛形として働き続ける」「この時期の体験でとりわけ重要であるのは,主たる養育者との情動的な繋がりである」「感情は一義的で,人間の体験の底,つまり心の生理的最深部の事象である」というものです。
3部作の9年後に出版されたのが今回の本書 “The Science of the Art of Psychotherapy” ですが,ここで彼の治療論がさらに精緻に論じられています。その骨格は,感情的絆の「断裂」に対して治療同盟において情動調律を介して「修復」を目指すというもので,ここで初めて自らの治療法を感情調整療法(Affect Regulation Therapy; ART)と称しています。人間の精神発達を考える上でその基盤となる乳児期の社会情動発達過程に焦点を当て,最新の神経生物学的研究の知見を駆使しつつ,自らの臨床経験に基づく知見との整合性を常に考慮しながら,生物学的知見と臨床的知見を統合した調整理論を構築するとともに,感情調整療法をも開拓したということができます。
以上,ショアが感情調整療法を生み出すまでの背景について解説してきましたが,最後に,本書を読むにあたってぜひとも着目してほしいことを述べて解題の役目を果たしたいと思います。
最初に取り上げたいのは,20世紀から本世紀にかけて発達科学において大きなパラダイム・シフトが幾度となく起こってきたことです。1960年代から70年代の行動パラダイム,80年代から90年代の認知パラダイム,そして今世紀における情動パラダイムへと続くパラダイム・シフトです。
これまで(近代)科学の世界は「普遍主義」「論理主義」「客観主義」の3つを構成原理としながら,人間に関わる多くの事象を要素的に取り出し,操作的に対象化してきました。行動および認知のパラダイムはこれに相応しい観点を提供してきました。しかし,情動パラダイムはこの2つのパラダイムとはまったく異なった性質を持ちます。情動という事象は常に変化し続けているため,ある断面を切り取って客観的に指し示したり,要素的に取り出すことはできません。臨床家は従来の客観的なスタンスを取っている限り,情動をありのままに掴み取ることはできません。この両者のパラダイムの根本的違いを考えると,臨床家は従来の臨床的スタンスに大きな変革を求められることがわかります。客観的スタンスを良しとしてきた臨床家は,情動パラダイムへの移行によって,それまでの主観を極力交えない立場から一転して主観そのものにしっかりと向き合うことを余儀なくされます。情動という事象を掴み取るには,自らの身体と情動が十全に機能することが求められます。これは臨床家にとってコペルニクス的転回そのものです。その点からも本書は臨床家にとってとても重い意味を持つものだということができます。
次いで取り上げるのは,人間の初期発達である生後1年半という乳児期はinfancyという用語に示されるように,いまだ話し言葉を持たない発達期です。この時期の体験を通して獲得された(あるいは,されなかった)脳の構造と機能は,生涯発達を通して,その雛形として働き続けるのです。話し言葉を持たない発達期を論じるためには,一義的な情動の動きを自ら感じ取ることがもっとも重要なことになります。それは必然的に無意識的世界に向き合うことを余儀なくされます。ショアが精神分析の再興を強く訴えているのはそのような理由に依っていますが,ここで重要なことは,単に彼は過去の精神分析の隆盛を取り戻そうと主張しているのではないということです。昨今の神経生物学的研究の膨大な知見を元に,精神分析が生み出した無意識的世界を,対人関係神経生物学の知見を元に再構成した非意識的世界として提示しているのです。この点をぜひとも味わいながら読んでいただきたい。
ショアはあるインタビュー(『右脳精神療法』pp.252-253)で精神療法について以下のように述べています。

(精神療法)は技芸でもあり,非常に主観的で個人的なものです。過去1世紀のほとんどの間,主観性は科学の範囲外であると考えられていました。しかし,私たちは今,精神療法が変えるのは顕在的な行動や言葉だけではないことを理解しています──主観性や感情にも変化は及びます。ご存じのように,左半球は言語と顕在的な行動に優位です。その一方で右半球は感情と主観に優位です。この二分法は,左脳機能対右脳機能にうまく適合します。2つの大脳半球は,外界──そして内界──からの情報を違う方法で処理します。1つは客観的な立場から,もう1つはより主観的な立場からです。2つの脳は,世界を認識する方法が異なり,世界における在り方が異なるのです。
神経科学は心理学と治療における主観性を正統なものと認めています。科学と臨床理論はともに,精神療法は基本的に関係的で情動的なものであることに同意しているので,私たちは今,患者の行動を患者自身に合理的に説明するよりも,情動的かつ間主観的に患者と一緒にいることがより重要であると考えています。中核の自己システムは関係的で情動的であり,分析的な左脳ではなく,右半球に局在化されています。私たちが共感的に「感情に従い」,患者が「高揚した感情の瞬間」を経験するのを促進するとき,私たちは直感的に左脳の支配を妨げて,「右脳に傾いて」います。……セッションの重要な瞬間に,患者は私たちが彼らに共感しながらともにいることを感じなければなりません。……私たちは,患者に対して(何かを)行うのではなく,患者と一緒にいながら,患者の右脳の情動的主観的状態を体験し共有しているのです。この治療の文脈では,私たちはまた,治療的接触をするために,そして患者が自分のより深い情動と接触するために,右脳に留まり続けなければなりません。


小林 隆児

訳者あとがき

これまで「関係」と「情動(甘え)」に焦点を当てた精神療法を志向してきた訳者はアラン・ショアの仕事との出会いで大きな勇気をもらいました。それは私の臨床への力強い応援歌のように私の心に響いたのです。そこで手始めに手がけたのが最新刊の”Right Brain Psychotherapy”の邦訳『右脳精神療法』(岩崎学術出版社)でした。ショアの研究の守備範囲のあまりの広大さに翻訳作業は難渋を極めましたが,なんとかかたちにすることができました。ただ『右脳精神療法』を訳出した際に痛感したのは,彼の仕事の集大成であることは確かですが,この本のみで彼の調整理論と感情調整療法を十分に理解することはさほど容易なことではないということでした。その後,過去に出版されている全著書を通覧して『アラン・ショア入門』(岩崎学術出版社)を纏めたのですが,アラン・ショアの仕事をしっかり理解するためには,どうしても4冊目の “The Science of the Art of Psychotherapy” を訳出して読者に紹介する必要があると強く思うようになりました。それ以前の「感情調整3部作」の翻訳本をわが国で出版することは現実的ではなかろうとは思いつつも, “The Science of the Art of Psychotherapy” についてはどうしても諦めることはできず,翻訳を引き受けてくれる出版社はないかと探し続けました。ご存じのように出版不況は相変わらずですが,おまけに円安ドル高による翻訳権料の高騰,さらに本書が大部であることなどの厳しい条件が重なり,出版社探しは難航しました。やっとの思いで出会ったのが遠見書房の山内俊介社長でした。現在の出版事情を考えると,重い決断だったと想像しますが,腰を上げていただいたことによって,今回の翻訳出版が実現しました。ただただありがたいの一言です。
なぜ私がこれほどまでに本書の邦訳出版にこだわったのか,少し述べてみたい思います。
私の臨床家としての始まりは自閉症の子どもたちとの出会いでした(小林,2020)。以来,言葉のない世界でのコミュニケーションとは何かということが私の最大関心事になっていきました。私の臨床と研究にとって大きな契機となったのは,自閉症の人に相貌的知覚という独特な知覚が根強く機能しているということの発見でした(小林,1994; Kobayashi, 1996)。この発見によって,私は自閉症の人々とのコミュニケーションの困難さは,けっして言語認知機能の獲得の問題にあるのではなく,相貌的知覚という原初的知覚がいつまでも活発に機能しているために,彼らはコミュニケーションの基盤である情動的コミュニケーションの次元に留まり続けているところにあるのではないかと考えるようになりました。情動次元での関係づくりを志すことによって,本来の言語的コミュニケーションへと繋がっていくのではないかという発達論的視点を持つことに繋がっていきました。その後,母子ユニットを創設して乳幼児期の子どもを母親との関係の相で観察しながら治療介入するという臨床研究の実践へと発展することになるのですが,そこで私が掴んだ重要な知見は,1歳代の子どもは母親に対して「甘えたくても甘えられない」という過酷な情動体験を持ち,強い不安と緊張に晒されていることで,それが手に取るようにわかります。しかし,2歳を過ぎると,すべての子どもたちは先の不安と緊張が表に表れなくなり,それに代わって独特な病態,すなわち発達障碍と診断される特有な症状を示すようになるのです。このことからわかるのは,これまで私たちが発達障碍の診断の拠り所としてきた症状は,彼らが母親との間で抱く不安と緊張を彼らなりの方法で和らげる,あるいは無いものにするという心理的防衛機制として理解することができるということです。
ショアの主張の根幹には,発達初期の養育者との情動的絆の質が脳の成熟と機能を大きく左右し,それは生涯発達において雛形として機能し続けるというものですが,私の考え方がショアの主張ときれいに重なることに気づいたのです。
長年ショアは重いパーソナリティ障碍の患者に対する治療実践を積み重ねてきた人ですが,最新の著書『無意識の発達』(日本評論社)で,今では自閉スペクトラム障碍に対して強い関心を抱いていることが語られています。私は自閉症の臨床研究から出発しながら,今では乳児から成人まで幅広く,ありとあらゆる精神病理へと私の関心と実践は広がっています。こんなところにも私はショアに親近感を持っています。
わが国の精神医学関連の学界を眺めると,精神分析の衰退とともに,力動精神医学と生物学的精神医学は枝分かれしてから随分と長い時間が経過しています。いまだ両者が統合に向かっているという話しは私の耳に入ってきません。今では精神療法は臨床心理士が行い,精神科医は診断と薬物療法を行うという分業が当たり前の世の中になりました。さらに精神療法の世界ではいまだ認知行動療法が代表格として取り上げられています。こうしたわが国の動向に対して少しでも風穴を開けたいとの思いから,私はショアの翻訳作業に精力を注いできました。本書の出版がその契機となればとの願いを抱きつつ筆を擱くことにします。
2025年9月
小林 隆児

文  献
小林隆児(1993).自閉症にみられる相貌的知覚とその発達精神病理.精神科治療学,8(3), 305-313.
Kobayashi, R. (1996). Physiognomic perception in autism. Journal of Autism and Developmental Disorders, 26(6), 661-667.
小林隆児(2020).自閉症の子どもとの出会いから五十年―─私の臨床,研究,教育の歩み.西南学院大学人間科学論集,15(2); 255-291.

著者紹介

著者紹介
アラン・ショア(Allan N. Schore, 1943-)
認知心理学者,精神療法家。カルフォルニア州立大学デイビッド・ゲフィン医学部臨床教員。
神経科学,精神医学,精神分析学,アタッチメント理論,トラウマ研究,行動生物学,小児科学,臨床心理学,ソーシャルワークなど,多岐にわたる研究と実践を続ける。神経科学とアタッチメント理論を統合した画期的な業績により,彼は「アメリカのボウルビィ」と呼ばれ,感情発達の分野では「右脳がいかに感情を制御し,自己感覚を処理するかについて世界をリードする権威」,そして精神分析学の分野では「神経精神分析学における世界的な第一人者」と評されている。
また,「右脳精神療法研究所(Right Brain Psychotherapy Institute)」を設立し,個人精神療法,力動的精神療法,カップルセラピー,身体指向性セラピー,および集団精神療法における,根本的な神経生物学的変化メカニズムへのより深い理解を育むことを目的としている。

訳者紹介
小林隆児(こばやし・りゅうじ)
1949年鳥取県米子市生まれ。児童精神科医,医学博士。1975年九州大学医学部卒業。福岡大学医学部精神医学教室入局後,大分大学,東海大学,大正大学を経て,西南学院大学を70歳で定年退職。その後,感性教育臨床研究所代表として現在に至る。臨床活動は非常勤医師としてクリニックおぐら(東京都世田谷区)にて従事している。
専門分野は,乳幼児精神医学,児童青年精神医学,関係発達精神病理学,精神療法。
学会活動は,日本児童青年精神医学会理事,日本小児精神神経学会理事,日本小児精神神経学会会長,日本乳幼児医学・心理学会理事長などを歴任。現在は,日本精神神経学会,日本児童青年精神医学会,日本精神分析学会,日本心理臨床学会,World Association for Infant Mental Health(世界乳幼児精神保健学会)に所属。
代表的な著書は,『「関係」からみる乳幼児期の自閉症スペクトラム』(ミネルヴァ書房),『自閉症スペクトラムの症状を「関係」から読み解く』(ミネルヴァ書房),『あまのじゃくと精神療法』(弘文堂),『人間科学におけるエヴィデンスとは何か』(共編著,新曜社),『発達障碍の精神療法』(創元社),『臨床家の感性を磨く』(誠信書房),『関係の病としてのおとなの発達障碍』(弘文堂),『右脳精神療法』(翻訳,岩崎学術出版社),『アラン・ショア入門』(岩崎学術出版社)など。
現在,精神疾患理解の脱構築に取り組むとともに,定期的にオンライン形式での感性教育講座を開催して臨床家養成に力を注いでいる。詳細については適宜以下のホームページを参照してほしい。
感性教育臨床研究所
ホームページ:http:/kansei-kobayashi.com
メールアドレス:kansei.kyouiku@gmail.com

 


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