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森俊夫ブリーフセラピー文庫③
セラピストになるには──何も教えないことが教えていること

森 俊夫ほか著

定価2,700円(+税)、310頁、四六判、並製
C3011 ISBN978-4-86616-018-4

万年 東大医学部助教にして元役者,ブリーフセラピー系心理士にして,東京・吉祥寺に日本全国から人が集まるKIDSカウンセリングシステムを立ち上げた森俊夫は,2015年3月に57歳で永眠した。

本書は,森の死の直前に行われた名臨床家たちとの対談集。「効果的に,早く治す」ことを志し,新しい心理療法の世界を切り開いてきた仲間たち─白木孝二,津川秀夫,中島 央・東 豊,東京大学医学部保健学専攻森ゼミ生らが登場し,黒沢幸子もまじえて,セラピストの成長や心理療法,対人援助に関する叡智について存分に語った。この本は,その刺激に満ちた対話を余すことなくまとめたものである。心理面接のエッセンスを語る,ユーモアと真剣さに満ちた一冊。「森俊夫ブリーフセラピー文庫」第3弾,完結。

関連本,
『DVDでわかる 家族面接のコツ(3)P循環・N循環編』(東 豊 著・出演 解説 黒沢幸子・森 俊夫)
『森俊夫ブリーフセラピー文庫①心理療法の本質を語る──ミルトン・エリクソンにはなれないけれど』(森 俊夫・黒沢幸子著)
『森俊夫ブリーフセラピー文庫②効果的な心理面接のために──サイコセラピーをめぐる対話集』(森 俊夫ほか著)

◆ 本書の詳しい内容


おもな目次

はじめに
(目白大学・黒沢幸子)

第1章 ソリューションからいずこへ
(白木孝二×森 俊夫)

第2章 催眠話、濃いめ
(中島 央×森 俊夫×黒沢幸子)

第3章 ブリーフセラピーとの出会い
(津川秀夫×森 俊夫×黒沢幸子)

第4章 一代助教・森 俊夫
(東京大学医学部保健学専攻 森ゼミ生×森 俊夫)

第5章 二人のエリクソニアン
(東 豊×森 俊夫(時々 中島、黒沢))

あとがき──森さんとの出会いと思い出
(愛知学院大学教授・吉川吉美)

ほか


はじめに
二〇一五年三月十七日、森先生は五十七歳で亡くなられました。病気の発見から半年足らず。食道がんでした。

森先生から、桜を見るのは厳しいかもしれないとの告知内容を打ち明けられたとき、私は「で、どうしたい?   何ができる?」と尋ねました。本当に根っからの解決志向です。森先生は、心理療法について、その本質や今の到達点など、私を含む「同志」と語り合い、それを本にしたいと希望されました。ふむ、面白そうじゃない!? 森先生はそれを自ら「森俊夫・生前追悼対談集」と銘打ちました。まったく、森先生らしいノリです。私は早速、遠見書房の編集部に企画のご相談をしました。
そこでまずできたのが、この本の第1巻にあたる『森俊夫ブリーフセラピー文庫①心理療法の本質を語る─ミルトン・エリクソンにはなれないけれど』でした。二〇一五年九月十五日の発行です。この本は、森先生への心理臨床や心理療法などに関するインタビューを黒沢らが行うという体裁になっています。森先生が飾らない言葉で率直に自身の心理療法についての考えや実践が語られているとても〝らしい〟いい本になりました。
一方、本書(第3巻)や昨年刊行された第2巻は、どちらかといえば、森先生自身がインタビュアーとなり、自らが信じる心理療法をともに創ってきた「同志たち」との対談や鼎談が中心となっています。インタビュアーとしての森先生は、じっと頷きながらにこやかに微笑んでいる……わけもなく、煙に巻いたり、丁々発止のやりとりを繰り広げたり、突っ込みを入れまくったり。当然、ボケもありです。二〇一五年の一月から二月までのかなり短い時間に、北は北海道から南は九州・熊本まで、皆さんに手弁当でご足労いただきました。集まっていただいたのは、児島達美、白木孝二、田中ひな子、津川秀夫、遠山宜哉、中島央、西川公平、東豊、山田秀世、吉川悟といったこの道を代表する面々です。それと、東京大学医学部保健学科の森先生の教え子たちがたくさん集まってくれました。また見舞いにきた関係者も同席していたりします。これに時間がある限り黒沢と編集者も参加しました。
本書の対話が行われたのは、森先生が入院されていた杏林大学附属病院(東京・三鷹)や、一時退院した折のKIDSカウンセリング・システムのオフィス、あるいは森先生のご自宅でした。最初のころは入院中で大変具合が悪いことも多かったのですが、このインタビューを始めてからだんだんと良くなりました。もちろん各種医学的治療の成果でもあるのですが、やはり人薬、心理療法は効果があるんだなあ、などと思ったりもしました。もちろん限界もありますが。

残念なことに、この対談の原稿を森先生が生きているうちに目を通すことができませんでした。校正に関しては、対談相手となる各先生方にじっくり吟味をしていただき、編集部に目を通してもらった後、私、黒沢にチェックが委ねられました。多くの赤字を入れたわけではありませんが、よくわからない表現を改めたり、間違いを正したりしました。また、元永拓郎先生(帝京大学)には、森先生の一番近しい同門としてこの校正を読んでもらい、いくつかの示唆をいただきました。インタビューや座談会に協力してくださった先生方に、森先生の分も含め、深くお礼申し上げます。
さらに、この場を借りて、このような大変な状況のなかを支え続けてくれたKIDSのスタッフ、ならびに関係者にも心より感謝申し上げます。
最後に、森先生の限りある貴重な時間を分けてくださった奥様と、二人のお子さまにも感謝の念でいっぱいです。誠にありがとうございました。
そして、最後の最後は、森先生の還暦のお祝いです。森俊夫ブリーフセラピー文庫は、本書(第3巻)をもって、完結となります。折しも二〇一八年一月、森先生は、ちょうど還暦を迎えられます。生きていらしたら、赤いちゃんちゃんこで、正月からお酒を酌み交わし、ブリーフセラピー、いえ心理療法の来し方行く末を仲間たちや後進の面々と大いに語り合う宴会といきたいところですが、本書の完結をもって、還暦のお祝いといたしましょう。
人生、巡り巡って振り出しに戻る。また新たなブリーフセラピー(クライエントさんのニーズに適ったより効果的・効率的なセラピー/対話と協働)の発展を心新たにスタートさせましょう。さぁて、お後がよろしいようで。

二〇一七年師走 黒沢幸子

 


あとがき──森さんとの出会いと思い出
吉川吉美(愛知学院大学教授)

あとがき──森さんとの出会いと思い出
吉川吉美(愛知学院大学)

故 宮田敬一氏と岐阜県のひるがの高原と、新潟県の佐渡島でワークショップを定期的に開催していた。宮田氏は催眠を、私はサイコドラマを。日本では、家族療法が勢い良く広まっていた頃である。宮田氏がジェイ・ヘイリー氏とヘイリーの元 奥さんクロエ・マダネスと親交があると知り、アメリカでの心理療法の世界について話していた。当時、アメリカではブリーフサイコセラピー研究が盛んになりつつあり、国際学会までできていることが解った。しかも、ファミリーセラピーやヒプノセラピーの諸心理治療を志す研究者たちも多く参画して、治療の効率性の追求をし、同時に、クライエント側の経済面の負担をかけないというものであった。私はとても関心を持った。すると宮田氏から提案があった。それはアメリカで知り合った人で、東京大学に森さんという人がいる、日本でもブリーフサイコセラピーの研究会を作って将来学会にしようと話している、一緒にやらないか、ということであった。その時、私は初めて森俊夫氏の名前を知ることになった。
そのすぐ後、宮田氏と森氏の計らいでブリーフサイコセラピーに関心を持つ人達に呼びかけ、東京大学の森さんのいる医学部教室を借りて集まりを持った。今日の日本ブリーフサイコセラピー学会の発足のファースメンバーたちである。話し合いの末、研究会が設立し、初代研究会会長が宮田氏で、森さんが事務局長に就任した。事務局は東京大学の森さんの研究室におくことになった。
そして、第一回大会をどこでやろうか、という話になった。「日本の真ん中でやるべきだ」──その発案は森さんからであったと記憶している。その意図は、このブリーフサイコセラピーの研究会が日本での心理臨床関係の諸学会の中で中心的な存在になればという思い、願いがこもっていたものであった。そのためにも日本列島の真ん中で開催したほうが良いのではないかというのである。私は当然にして集まりやすさ、交通の便利さ……等々の「開催しやすさ」の条件を考えると東京で行うのが無難であろうと考えた。しかし森さんは日本列島の中心にこだわる。文化的経済的中心は東京なんだから東京でいいじゃないかと思ったが、森さんは地理的な中心にこだわるのである。
じゃそれはどこか、ということになり、集まったメンバーがいろいろ考えた。「日本の中心の真ん中ってどこ??」 しばらくして森さんが長野県が良いのではないかと言った。長野で学会をやるためには長野に関係がある人がいることが望ましい。だけど集まったメンバーの中には長野県人がいない。でも森さんは「やりましょう! 長野県で!」と強気で押すのである。私は「なんと無謀なこと!」と思った。そして結局、事務局長の森さんと私が担当になってしまった。長野県での開催地と、世話人を探す仕事である。しかし、私は森さんの強気の発言の奥に、「誰か知り合いがいるのであろう」と思っていたので、気楽にその役を引き受けたわけだが、その後、森さんと話し合ってみると、反対に「吉川先生どなたか知っている人はいないですか、私はおりませんので……」と言うのである。またまたビックリだった。「心理の関係ではあまりいません」と伝えると、森さんは「そうですか。なら、吉川先生、とにかく探しましょう」とかなり楽観的に言うのだった。
ブリーフサイコセラピー研究会設立趣意書を片手に、日本心理臨床学会の名簿や臨床心理士会の名簿から長野県の人をピックアップして一方的に電話をかけ、「ブリーフサイコセラピーの研究会の第一回大会を行いたいのですが、引き受けていただけないですか」という趣旨でいろんな人に電話をかけた。電話をかけながら、森さんってどんな人?と思った。今まで出会っていないタイプの人であることは間違いなかった。前向きの人、フロンティアスピリットの人、プラス思考タイプの人、外向的タイプの人……等々、彼をみる目ができてきた。
その後、私が当時住んでいた愛知の自宅に立ち寄って、泊まっていただき、ウィスキーを飲みながら深夜までいろいろと話をした。時間が足りないほどである。彼の出身地の話から、今現在までの彼の人生、まさに彼のアイデンティティ形成のプロセスを聴いていた感じであった。私とはタイプが異なるが、楽観的で攻めの姿勢であることは共通であるなあと思った。
最初から難関だらけであったが、問題を乗り越え、第一回大会は無事成功に終わった。ブリーフサイコセラピーというものが余り世に知られていない状況で、勉強会もほとんど開催されたことのない地域で、第一回大会を開催しようということは、仲間作りを行い、関係性の構築をしなければならないということであった。しかも短期間での地域でのリサーチと関係性の構築を要求されていたが、森さんのスポンティアネスと行動力により無事実現できた。今思えば、これはまさにブリーフサイコセラピーの発想そのものであり、ブリーフサイコセラピーの学会の基盤作りに貢献したと思っている。

当時私は医療機関の心理職として働いており、臨床動作法を用いてさまざまなクライエントの治療にいかに工夫をこらし、いかに効率よく、いかに短時間で治療するかということに着目していた時期であった。数回の短いセッションでチックやヒステリー、脱毛、夜尿、等々の治療を行なっていた。このことを第一回大会開催準備中の、出会ってまだ間もない森さんに、ぶつけてみたことがある。それまで私の仲間の心理の人達に話してみたことがあったが、ほとんどの方に眉唾ものと評価され、相手にしてもらえなかった。なので人前で話すことに少し慎重になっていたのだが、彼はギラギラした目つきで(関心、興味を持った感じで)聞いてくれていた。その時、私はブリーフセラピーをやってみようと心の中で強く思ったものだ。
また当時関心を持っていたサイコドラマの創始者モレノの言うスポンティアニィについても話してみた。そうしたら森さんも演劇をやっていると聞き、人の生活の中で「役」についてもとても面白い話をした。「人生は劇のようだ!」と。
またある時、やはり第一回大会の件で東京大学の森さんの研究室を訪れ、打ち合わせをした後のことである。せっかくだからと私を居酒屋へ招待して頂いた。森さんの院生(弟子)たち(名前は言いませんが)と東大の赤門を出て本郷の町の小路の奥に入っていった。そこは彼らがよく集まる店があるということであった。どんな店かと思っていると、ここです、とドアを開けたら、薄暗いスナックでカラオケのあるお店であった。そして私は主賓(?)としてもてなされ、森さんと弟子たち(院生)6名ほどが囲み、酌をされ、酒を飲んだ。乾杯をしてしばらくすると、森さんが「おい、◯◯君、あれをやれ」というのである。そうするとその◯◯さんは、「ハイ!」と元気に立ち上がりステージに向かいマイクを取りスタンバイ。そして曲が流れてきた。私は「エッ!!」とビックリしてしまった。なんと流れてきた曲が「演歌」、それもコテコテのド演歌であった。そして次も「……でございます」調の演歌。古い話とは言え、平成の時代であり、演歌を聞くような世代でもない。私はそれまで相当の偏見を持っていたのだが、東大生といえば良家ご子息達やお嬢様達ばかりで演歌など知らず、クラシック等を聞き、フルートやピアノ等を奏でるというイメージを抱いていたが、それが根本から崩れた感じがした。森さんにこのことを尋ねてみた。彼は自慢げに「そうです。だからこそド演歌なんです」と言うのである。こういう指導をしていますということであった。
森さんの所属は医学部の精神衛生学の研究室であった。現場で相手にする人はご老人たちが多い、だから現場へ行ってもやっていけるように指導しているのだと。私はなるほど、本当にそうだと思った。それ以来今日まで森さんの指導法を若人の指導に取り入れている。
もうちょっと学術的な話をしたほうが、森さんの供養になるかもしれない。いつだったか忘れたが、私は一回のセッションで治ったケースを話したことがある。すると、森さんは一回のセッションで何があったのかを検討していくことの必要性を強調されていて、これも同意することだったので、詳しく話し合ったことがある。つまり、心理療法のエッセンスの追求ということであった。「癒す」ということを考える場合、心理臨床家の実践を検討するだけではなく、沖縄諸島にいるユタさんなどにも登場していただき、セラピーの共通性を検討できるような自由度のある研究ができるといいなぁとも話した。そしてこれがきっかけとなり、セラピーのエッセンスを探る足がかりができればと日本心理臨床学会での自主シンポジウムを10回ぐらい担当したのではないかと思う。企画内容は主にブリーフセラピーのエッセンスを目指したものであった。記録をまとめれば、かなり面白いものになると思う。
森さんと一緒に研修会をやったことも思い出にある。森さんよりある日オファーが来た。東京で臨床動作法のワークショップをやってほしいということであった。内容を聞くと、病院の患者の了解を取るので参加者の前でライブをやってほしいという。私はすぐOKした。実はこれがライブの初めての体験だったが、それ以後、今日まで私はほとんど同じスタイルでワークショップを行うことにしている。このことも森さんがきっかけを作ってくれたと思っている。また大学院生指導にもこのスタイルを導入している。私が大学の心理相談センターで担当することになったケース全てに院生の陪席(助手と位置つけずに)をしている。私の治療のやり方を見てもらうのだ。これも森さんから依頼されたライブがきっかけになっているのだろう。
あれこれ思い出すと次々にいろいろなことが思い出され、とりとめもなくなるが、ここで述べたのは、私が彼と出会った初期のことである。森俊夫という人間は、私のこれまでの人生に大きなインパクトを与えてくれた人物である。残念ながら亡くなってしまったが、どこかで「エヘヘ」とニヤ顔で見られている感じがする。今回、私がこの稿を書いたのは、この本にある対談の席に招かれていたのだが、時間の都合で彼と会えなかったからである。彼と対談しようと思っていたことは彼と出会った当時、我が家でウィスキーを飲みながら話し合っていた、その続きをしようと思っていた。どんな話になっただろう。残念であったが、またお会いできるのではと思うので、その時にまたと思っている。

 


著者略歴

森 俊夫(もり・としお)
東京大学大学院医学系研究科精神保健学分野助教。KIDSカウンセリング・システム スーパーバイザー。1981年 東京大学医学部保健学科卒業。1988年 東京大学大学院医学系研究科保健学専攻(精神衛生学)博士課程修了後,現職。博士(保健学),臨床心理士。専門はコミュニティ・メンタルヘルス,ブリーフセラピー,発達障害への対応。2015年逝去

黒沢幸子(くろさわ・さちこ)
目白大学人間学部心理カウンセリング学科/同大学院心理学研究科臨床心理学専攻教授。KIDSカウンセリング・システム チーフコンサルタント。1983年 上智大学大学院文学研究科教育学専攻心理学コース博士前期課程修了。臨床心理士。専門はスクールカウンセリング,思春期青年期への心理臨床,保護者支援,解決志向ブリーフセラピー