ダイアローグ:精神分析と創造性

『ダイアローグ:精神分析と創造性』

前田重治・北山 修 著

定価1,800円(+税)、130頁、四六版、並製
C3011 ISBN978-4-904536-39-1

精神分析の匠が奏でるモノローグとダイアローグ

精神分析とはどういう営為なのであろうか。そこに流れる創造性とは何か?──精神科医にして精神分析家の二人の著者が繰り広げるモノローグとダイアローグ。
精神分析の生き字引である前田先生による,有名な「芸論」についての講義と,それを受けてたつ北山先生による「創造性」の論議。そして,二人の丁々発止の愉快な対談。また,前田先生の心理療法と芸論に関するエッセイも数編,掲載しました。楽しい楽しい本になりました。
こころの治療に関心のあるすべてのひとに読んでもらいたい1冊です。

本書の詳しい内容


おもな目次

はじめに(北山 修)

1:劇的な精神分析 北山 修
マス・コミュニケーション対パーソナル・コミュニケーション
精神分析と劇的観点
無意識の台本を読み取る
転移
人生・劇・浮世
フィクションと実人生
二重性
治療構造
反復を取り出す
葛藤の三角形
ある症例から
治療室は楽屋である
裏がなくなっていく現代
終わりに――第三者のためではなく

2:芸論と心理臨床 前田重治
芸論とその種類
短い芸論
小話的な芸論
離見の見
神は細部に宿る
虚実皮膜の間
二律背反
守・破・離
むすび

3:ダイアローグ―あるいはさまざまなレスポンス 前田重治×北山 修(司会:寺沢英理子)
「劇的」とは
細部が見える
昔の精神分析
語り・矛盾
周辺と前意識
生きる・詩
裏とこころ

4:芸論と心理臨床 追補 前田重治
脇役の芸
好きな言葉
はじめの一行

あとがき(前田重治)


はじめに

二〇一〇年の七月は猛暑だった。もう四十年も前になるが、札幌医科大学で研修医時代を過ごしたこの街を一人で歩いてみた。大通公園から円山に向かっ て続く緑は濃く、市内の西側に連なる藻岩山から手稲山へと続く山々の稜線はあの頃のまま残っていた。また、市内の東をゆっくり蛇行している豊平川の流れは 変わらず涼やかに石狩湾を目指していた。すすきの界隈はいわゆるケバさはなくなり、随分と落ち着いてしまってはいたが、その一角にある温泉付きの馴染みの ホテルは妙に場違いな異文化の風情を醸し出していてそのコントラストが面白かった。その近くの料亭に、年とともに数は減るが、昔の仲間が集まり、相変わら ずの楽しい一夜を過ごした。
千歳には、その前日の夜に着いた。久しぶりの北へ向かう揺れるフライトは、予期せぬハプニングを予感させていた。今回の札幌入りは、いささか長いが、「札 幌学院大学臨床心理学研究科開設一〇周年・心理臨床センター開設一五周年記念講演会」に招かれてのことであった。「創造性と心理臨床」というテーマで、前 田重治先生と私とがそれぞれ少し話した後、対談をするという企画だった。二十年近く前田先生と私とが九州の地で語り合い練り上げてきた一連の話題につい て、今度は北の地で実現するというのは、中央の本州を挟んで周辺で渡り合うという意味でなかなか面白いと思った。主催者からの依頼文には、「北の大地で、 精神分析のマスターお二人にこれまでの教育・臨床を手掛かりにして、若い世代に語り継ぎたいこと、期待すること、我が国の心理臨床のこれからについて熱く 語ってほしい」という意図が記されていた。
まあ、その意図はともかく、思いつきに満ちた講演と、自由連想のように流れた対談の時間は、今、参加者のこころにどのように残っているのだろうか。きっ と、こころの中に溶け込んで、あれは何だったのかと思い出せない形で存在しているのではなかろうか。私もまた、あの時何があったのか何をしゃべったのか全 く思い出せないくらいに、あれはとりとめのない時間であった。無定形で無意味な内容こそ創造性の素なのであり、今ここでテープを起こしてもらい原稿になっ て印刷されなければ消えてしまうほど輪郭のないところが貴重だったのである。ということは、本書は意識的に意図的に書かれた書物なんかよりも遊びと矛盾に 満ち、それなりに創造的であったと言え、講師にとっても聴衆にとっても、贅沢な話の記録であることになる。まさしく、ここでの話が放しっぱなしにならない で、ひょっとして何か「作品」が創造されたのかもしれない。
札幌学院大学は、札幌の東部に隣接する江別市にあるが、今回は大通公園の西端に近い「ホテル札幌芸文館」で行われた。大学院生、修了生、教職員に加え、臨 床心理や精神医学の専門家と一般市民が混在する聴衆が対象であった。このような形態での講演依頼は通常は受けていないのだが、周辺の地ではいろいろ予想外 のことが起きても見逃されるものである。それこそ、中央文化に対する周辺の意義だろう。周辺人による周辺を相手にした周辺の書物なのだ。きっと、読者の書 棚の周辺におかれるのが相応しい。
講演が終わってしばらくしたころ、企画の打診があった。私は、いつもの口癖の「めんどうくさい」というような意味のことを言ったようにも思うが、前田先生 との共作ならばそれだけで記録に残すことは悪くはないように思った。九州では、二、三週間に一度くらいのペースで繰り返されたあの遊びの対話を何らかの形 で発表することはずっと念願であったが、若干照れもあり自分ではなかなか進められず、やはり札幌学院大学の田形修一先生と寺沢英理子先生という「抱える環 境」を得て遊びがクリエイションを経て作品になったことを強調し、こころからの謝意を表しておきたい。

北山 修


あとがき

本書の話し相手の北山修さんについては、有名なので皆さんはよくご存じのことだろう。ここでは私との関係について、ちょっと述べておきたい。
北山さんは、私の後任として平成三年の秋に九州大学教育学部にやって来てくれて、その後カウンセリング講座の四代目の教授を務めてくれた人である。おかげ で私は安心して、第一線から身を引いて隠居することができた。有能な彼は、九大のため、また日本の精神分析の発展のために大いに貢献してくれた。最近で は、彼の「見るなの禁止」論は、国際的にも知られるようになってきている。そして一昨年(平成二二年)の定年まで、一九年間も活躍してくれた。
二人とも精神科医であり、精神分析家でもある。彼は、わが国にウィニコットの著書や論文を数多く紹介してくれたもので、英国独立学派(中間学派)の先駆者 にしてリーダー的存在である。一方、私は催眠からフロイトに入門し、自我心理学を軸としてきたもので、(自称)ポスト・フロイト派である。このように学派 をはじめ、育った土地も時代も戦前戦後と大きく違ってはいるが、二人とも精神分析を楽しむという点では共通した資質をもっているようである。とくに文学や 芸術や芸能を愛好し、万事につけて遊びが好きだというところは、よく似ている。いわば精神分析畑での、遊び派――好くいうなら「文化‐文学派」とでもいっ たところだろう。
その彼が、単身赴任で福岡に来ていた一九年間、「はじめに」でも述べられているように、月に二回ぐらいは、夜に二人で会食していた。彼は国際学会や招待講 演などで、ときどき外国出張したり、長い休暇もあったりしたのでそれらを差し引いたとしても、三〇〇回以上は、差し向かいで飲んで語り合ってきた勘定にな る。ふだんは三、四時間ぐらいだが、私の家に来て、画集をひろげたり、ビデオで映画や演劇を見たり、音楽を聴いたりなどしていると、すぐに五、六時間は たってしまう。話しが尽きなくて終電が無くなったことも、何度かあった。
そこで一体、何を語り合っていたのか、と尋ねられても答えにくい。精神分析の最近のトピックスや国際的な潮流などの学術的な話(これはもっぱら教えても らった)から、お互いの子どもや孫たちの生態にいたるまで、ピンからキリまでである。しかしそこでの話題の九五%は、その週、その月にお互いが味わってい た芸術や芸能(これもいろいろと幅が広いが)、文学についての感想や批評などだったといえようか。
そんな北山さんと、公開で改めて「対談」をするようにという注文には、困惑したものである。ともかく誘われるままに札幌へ行って、照明の眩しい演壇に上げ られて、向かい合わされた。今さら何を語れば、という感じだった。結局、何の打ち合せもしないままに、対談が得意な彼にすべて任せることにした。そしてそ の場で思いついたことを、勝手に喋っているうちに終わってしまった。記録がなければ、本当に、いつもの調子で何をしゃべったのか、おぼえていない。
それが、こんど本になるという。自分の講演については、時間の都合ではしょった部分をすこし追加し補修したりした。ついでに「芸論」にはなじみのない方もいられるだろうと、少し「注」を加えることにした。一方の対談については、そのままが活字になっている。
精神分析はフロイト以来、時代の流れにつれて、それぞれの時代の患者の心性や病理に見合うように、その理論はいろいろと変遷しつづけている。北山さんが講 演でも対談でも取り上げていたように、それを学ぶには、自分で自由連想法を実践し体験しないと学べないものである。それは息の長い地味な仕事である。思う に、精神分析は心理治療での即戦力になるというよりも、面接場面で相手との関係を細かく、深く理解してゆくための感受性を高めるのに役に立つものであろ う。それがひいては、相手の役にも立つものである(その点で誤解がないように断っておくが、精神分析の応用としての「精神分析的療法」には、即戦力があ る。その違いについては、ここでは省かれている)。
精神分析のミソは、相手の転移が(ひいては自分の逆転移が)読めるようになること、柔軟にイメージを働かせて自由連想ができること、そしてそれを言語化で きるようになることであろうと思う。もうひとつ加えるなら――転移・逆転移にも関連するが――共感性の高さが求められる、ということになろうか。
これを芸論に引きよせていうなら、精神分析を学ぶと、芸術や芸能の鑑賞にさいして、作品への感情移入がうまくなり、より深く味わえるように思う。美意識の 根本原理といわれている感情移入というのは、今日ではもつと広く「自己移入」とも言い替えられている。これは心理面接での基本となる「共感」という感じに 近いものである。
この本のどこかに、何か自分の参考になるものを探し出していただけたら幸いです。

前田重治


著者略歴

前田重治(まえだ・しげはる)
1928年長崎市に生まれる。1952年九州大学医学部卒業。精神科,心療内科を経て,1972年九州大学教育学部教授。現在,九州大学名誉教授,医学博士。専攻は精神分析学・カウンセリング。
主な著書:「『芸』に学ぶ心理面接法―初心者のための心覚え」「図説 臨床精神分析学」「図説 精神分析を学ぶ」(どれも誠信書房)など多数。

北山 修(きたやま・おさむ)
1946年淡路島に生まれる。1972年京都府立医科大学卒業後,英国モーズレイ病院およびロンドン大学精神医学研究所で研修,帰国 後,北山医院(現南青山心理相談室)院長。1992年九州大学教育学部教授。現在,九州大学名誉教授,医学博士,国際協会精神分析医。専門は精神分析学。
主な著書:「劇的な精神分析入門」(みすず書房),「覆いをとること・つくること―『わたし』の治療報告と『その後』」(岩崎学術出版社),「共視論」(講談社)など多数。

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