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『ナラティヴ・時間・コミュニケーション』

野村直樹著

定価2,000円(+税)、154頁、四六版、並製
C0011 ISBN978-4-904536-18-6

「ぼ くは単なる比喩ではなくリアルな意味で『生きた時間』のありかをさがしたいと思った。あるのだけれども、それを把握する言葉がなかった。ベイトソンの 打ち建てたインターアクションに基づく世界観が一つ、ナラティヴの理論がもたらした言語観が一つ、マクタガートの系列時間の哲学がまた一つ。バフチンのポ リフォニー理論が一つ。そして最後に正法眼蔵の時間論『有時』がさらにもう一つ、と。これらのアンサンブルが第2部で示したE系列(ナラティヴ)の時間理 論への道すじであり、道具立てだった」

フィールドワークから生まれた発想と,刺激的な対話が織り成す,のむら先生の講義ノート! 森岡正芳氏,やまだようこ氏らも入り混じり,ナラティヴ(物語り/語り)とコミュニケーションに、時間を組み入れた、新しい世界観を呈示する。

本書の詳しい内容


おもな目次

01  基礎編 コミュニケーションとはなにか?
(1)コミュニケーション学の由来
(2)関係性を科学する
(3)コミュニケーションしないって、それ無理!
(4)「報告(レポート)する」「命令(コマンド)する」
(5)ちょっとまとめてみましょう
(6)フランス人の手振り
(7)言語的メッセージと非言語的メッセージ
(8)コンテクスト、それは言葉を取りまく生態系
(9)メッセージ・ギヴンとメッセージ・ギヴン・オフふたたび
(10)ナラティヴという考え方
(11)ナラティヴ・ベイスト・メディスン(NBM)
(12)人が作る組織は言語的システム
(13)本質と記述と
(14)羅生門的現実とナラティヴ
(15)無知の姿勢(Not-knowing)
(16)「会話が成立する」とは
(17)「無知の姿勢」を試してみよう
(18)「無知の姿勢」による会話の姿
(19)「生きている言葉」と「死んだ言葉」(Bakhtin 1975)

02  時間論編 「生きた時間」とはなにか
(1)プレロマとクレアツール
(2)「物理学的説明」と「コミュニケーション的説明」、どっちの説明原理が正しいのか?
(3)どちらも物語の世界、でも……
(4)ユングの真意は?
(5)時間と区切り
(6)リズムと時間の書き換え
(7)キューバ人のテンポ
(8)時間とあそぶ
(9)マクタガートの時間論
(10)文化特有の時間
(11)E系列の時間――対話的時間
(12)まとめ――心理的時間(A系列)、物理的時間(B系列)、非時間(CおよびD系列)、対話的時間(E系列)
(13)E系列の時間と同調(synchrony)
(14)カーニバル的時間――E系列の時間として
(15)「声」としての時間
(16)ナラティヴ・セラピーと時間の外在化
(17)学習される時間
(18)時間と空間
(19)時間論のかなたへ
(20)さいごの質疑


まえがき

この小さな本はぼくが二カ所でおこなった講演をもとにしている。一つはある公的機関でのもので、それが基礎編の「コミュニケーションとは何か?」である。もう一つは関西のある大学でおこなわれた公開セミナーで、それが時間論編「生きた時間とはなにか?」にあたる。

内容は大幅に加筆されているものの、講演やセミナーの雰囲気をなるべく留めるよう残してある。そのため読者のみなさんには、観られるものが観られなかったり、聴けるものが聴こえなかったりと、ところどころ不便をおかけすることになり、その点をお詫びしたい。

語 られた話の中だからこそ伝わる何かを、ぜんぶ書き言葉に直してしまったら、こんどは臨場感やスピードを失ってしまう。この本自体が何かを読者にコ ミュニケートしようとするものならば、そのもっとも有効な形を採用するのが望ましいだろう。こういう形式での口調が、読者にうまく伝わるかは正直読者のみ なさんに判断をあおぐしかない。

さ て、この本を一貫するものは、インターアクティヴという視点である。ものごとを徹底して相互作用(行為)と対話形式という場所から眺めていく姿勢 である。そこで、哲学や発達心理学とは違ってくるし、言葉遣いも違ってくる。やりとりや二者関係が分析の最小単位になる見方と言ってもいいだろう。

そういう言葉遣いを、「関係性言語」という言い方であらわすこともあるが、この認識論を社会科学の分野に打ち立てたのがグレゴリー・ベイトソンである。この本はベイトソンのその認識論に沿ったかたちで進められていくという特徴があるので初めに断わっておきたい。

まえおきはこの程度にして、読者のみなさんにはこの中の会話の一員になっていただければうれしいとぼくは思っている。


フリーズ・フレームズ――あとがきにかえて

今 日のぼくたちの生活では、写真もビデオも当り前のものとなっている。しかし、写真とビデオ、その間にはどんな関係があるのだろうか。われわれは普 通あまりこういうことは心配しないで生活している。両者の違いは、動いているか止まっているかにあるのは当然だ。つまり、動画と静止画との間はどのような 関係があるのだろうかと、という言い方に直すことができる。

「それが何だって言うのだ?」、「決まっているじゃないか、それは止まってい るか、動いているかの違いだけじゃないか」。答えはすでに出ていると思 われるかもしれない。しかしである、動画と静止画の関係をテーマにした映像人類学の学術会議が催され、その関係について二日間徹底的に討論されたのだ。二 〇一〇年四月フランス、パリでのその会議からなんとあろうことか、ぼくに発表の招待状が届いた。外国から発表の招待が来たのは初めてのことだ。しかも往復 の飛行機代と二日間のホテル付きで。こんなことはこれからもないだろうが、その学会のテーマが??フリーズ・フレームズ?=iFreeze Frames)「コマを止めろ」というものだった。

いわゆる昔からの動画は一コマ一コマの連続である。そのコマを回して動画にしているか ら、その一コマがスチル写真(still photos)というわけだ。フランスの学会らしくもうひとつひねりが効いている。人類学者のみならずアーティストやメディア関係の人も一緒に発表しよう というのだ。当然かもしれない。動画と静止画に関わるのは、人類学者や社会学者に限らない。アーティストも写真家も映画製作者もみな関わる問題に違いな い。共通テーマというわけか。

動画と静止画への着目は意外と奥が深い。先ほど、静止画は動画を止めただけだと言ったが、歴史的にみて最初に世に現れたのは静止画(写真)の方だった。動画はそれを連続させる時のわれわれの目の錯覚によって作られている。

さ て、ビデオの一時停止ボタンを押すと動画の中の時間は止まる。しかしわれわれの時間はそうはならない。ということは、時間は二つあると言えるの か? 動画の中の時間とわれわれの時間と?(このあとがきは、この本の内容を読む前にあとがきを先に読む人のために書かれている。この本の第2部を読んだ 人には半分了解済みのことかもしれない)。

もちろん時間の問題ばかりではないが。動いているものを連続写真で記録した場合を考えてみよ う。〇・二秒ごとに一枚ずつ撮る。しかし連続写真は、い つシャッターを押し始めるかにより無限の可能性、つまり「区切り方」を残している。そしてわれわれの記述の印画紙にプリントされているのは、往々にしてこ のような無限性から切り取った連続写真の中の印象的な一コマであることが多い。それが夢のような想い出であっても、不運な出来事としてフラッシュバックさ れる数コマの画像であろうと。

すると絵画は静止画像ではないか、動いているものの一瞬を特異なシャッターで切り取ったものとしての。例えばピカソの青の時代に見る肖像画は、その人物の本質を射抜くかのように、内面的なものやエッセンスをそこに凝縮して留めている。時間も一緒にフリーズしている。

で はフェルメールはどうだろうか。フェルメールの絵に描かれる人物たちには、何の本質もみてとれない。動きの中の一コマにすぎない。その代わり、そ れらの絵が切り取られる少し前の時間も、この後の時間もしっかり見てとれる。それらの絵は時間の幅とともに描かれている。フリーズ・フレームズというテー マには、芸術の本質的な問題意識が見え隠れする。絵画は何かを動かすために何かを止めたのだ。それは時間の問題と微妙にからんでいるようだ。

話 は芸術にとどまらない。ところで、ぼくは今この手記をというか、あとがきをパリのポンピドゥー芸術文化センターの前にあるLe Mont Lozereというカフェで書いている。というのは、フリーズ・フレームズの学会でなんとか発表を終えたぼくは、日本に帰っているはずだった。そこにアイ スランドの火山爆発があったため、約一週間の足止めをさせられてしまったからだ。火山の爆発時点ではスペインにいたぼくは、日本に帰る便に乗るためマド リードから十八時間の夜行バスでパリに到着した。が、結局ドゴール空港は出発当日も閉鎖されたままで、自動的にフライトはキャンセル。パリで長蛇の列に四 時間半並んで、それでやっと五日後の予約を取り直すことができた。スペインからの脱出については、またの機会にしよう。

話が芸術にとどま らないというのは、ここフランスではマンガが人気を呼んでいる。それは流行なんてものではない。フランスはアメリカに次ぎ世界第二 位のマンガ消費国なのだ。フランスではたとえ地方都市でさえも本屋さんには立派なマンガコーナーがしつらえてある。それも、本棚にはManga Shojo、Manga Shonen、Manga Seinenとすでにジャンル分けまで進んでいる。これはパリの話ではない。スペインに行く途中やはり二日間足止めをさせられた南仏のモンペリエという地 方都市で見たことだ。

さてそのマンガだが、これなどは正に動きがコマに見事にフリーズしていながら、あれほどの動きを感じさせる見事な静 止画なのだ。マンガに描かれた人 物には動きがあり、スピードを感じさせ、こちらの心を動かす。フランスでも大人気の日本のマンガ『One Piece』を想い出してみればうなずけるだろう。ある意味、こんなスゴイ静止画は、マンガをおいてそう沢山あるのものではない。このことをフランス人は 気付いたのかもしれない――やはり絵画芸術の国だけあって。それは今回のフリーズ・フレームズという学会テーマの底流にある問題意識であったのかもしれな いのだ。

今、フェルメールの絵の前にいる。ルーヴル美術館三階の展示室である。ここに「レースを編む女」という小さな作品と「天文学者」の二点が展示されている。 初めて本物のフェルメールをみた。すばらしい。ヨーロッパ人の夫婦が解説テープを聞きながらじっと見ていた。同じ展示室に数点だが他の画家による同じよう な場面を描いた作品がある。それらと比べてフェルメールは違って見える。絵が動いている。その夫婦の言葉では??mysterious(神秘的)?≠ニい う言い方になるらしい。

「レースを編む女」では、作者がピンホールカメラを使ったという史実があるそうだ。「天文学者」の方にピンホール カメラが使われたかは不明だが。ぼ くのあとから中学生が四人ほど来て宿題らしい紙に何か書き込んで去った。それからまた五人くらいの人が来る。「これ、これ」といった表情でみてから去っ た。日本人ツアー客も来る。「日本での(展示の)時はすごい人でゆっくりみられなかった」とその一人が言う。

「レースを編む女」は、時間の 流れよりもリズミカルな手の動きの方を強く感じさせる。光の陰影はほとんどない。一日のうちのいつの時間を示す手がか りはないが、手が細かい作業を一つ一つこなしていく動きがそこにしっかりある。少女のふくよかな顔に対して手や指はいくぶんゴツゴツと描かれている。手が ひとりでに動いていくのをやさしく眺めているという表情だ。軸の指の方は主体性をもって動いていく。少女は、指の進める作業を確認しながら動きについてい く。じっと絵を見ているとこちらにもリズムが生まれてくる。

「天文学者」は地球儀に右手をあてている。絵は地球儀を回している瞬間をとらえている。太陽の光が地球に昼夜をつくるように、地球儀にも窓からの光 が昼夜をつくり出している。これは「レースを編む女」のようなリズムを感じさせない反面、窓からさし込む光が、午後の光であろうか、絵全体にそして場所場 所によって異なる光の表情を作り出している。絵の中における光の当り方は一カ所として同じではなく、光が各所でその言葉を発しているかのようだ。地球儀に 手をかける、そして少し回し始める、それをまた一時止めたその瞬間をねらってシャッターは切られている。まさに動画を前提にした静止画像だ。不思議であ る。そこが??Mysterious?≠ネんだなと思う。ルーヴルのこの同じ部屋には先にも触れたがPieter de Hooch、Karel Dujardin、Willem Kalf、Gerald ter Borch、Caspar Netscherというほぼ同時期の同じような日常を描いた絵が何点かあるのだが、どれもFrozenというか動きが止まっている。フェルメールが違って いる。

「天文学者」の窓は上下二段になっている。そして上の窓から差し込む光の方が強いところから太陽はこの時かなり上にありそうで、日 中を想像させる。 午後にしてもあまりおそくない時間だろう。着ているガウンの分厚さから寒い時期かもしれない。上と下の窓から入る光の違い、下の窓の中央にある小さなステ ンドグラスの光、それに対して座ったチェアの背もたれの暗さ。光が絵の中のありとあらゆる場所、壁の箇所、デスクカバーの布の折れ方による箇所。顔や長髪 の頭に見られる光のグラデーション。窓枠の中の位置、学者の体のあらゆる箇所に当る、異なった光として。「レースを編む女」は二メートル以内で見る絵に対 して、「天文学者」は三メートル以内だろうか。でも二メートルでの「天文学者」もわるくない。

「天文学者」の絵の光に慣れてくると、ちょ うど明るい所から映画館の暗さに慣れるように、細部がよく見えはじめてくる。ふと、閉じた棚の上の七~八 冊の本に気付いた。壁の隅に置かれた棚の上だから光は少ない。細部を凝らせば恐らくたくさん気付くことだろう。壁にかけられた絵の特徴や机の上のノートに 書かれた文字の特徴など。

この絵が時間と関係するとすれば、それは一日のうちいつ頃だろうかと見るものに想わせること、想わせてそれを想 定させれば、光の表情からして見る人 は時間の流れを感じはじめる。それは絵の中の時間。つまり、自分の時間が止まり、絵の中の時間が動き出す。ほんとうは逆のはずなのに。フェルメールの絵の 神秘(mysteriousness)はそこにあったのだ。自分の時間ではない時間が動き出すからくりをフェルメールの絵は知っている。

ぼくは単なる比喩ではなくリアルな意味で「生きた時間」のありかをさがしたいと思った。あるのだけれども、それを把握する言葉がなかった。ベイトソンの打 ち建てたインターアクションに基づく世界観が一つ、ナラティヴの理論がもたらした言語観が一つ、マクタガートの系列時間の哲学がまた一つ。バフチンのポリ フォニー理論が一つ。そして最後に正法眼蔵の時間論「有時」がさらにもう一つ、と。これらのアンサンブルが第2部で示したE系列の時間理論への道すじであ り、道具立てだった。先人らの偉大な仕事をつなぎ合わせて、ささやかな一句を詠んだに過ぎない。E系列の時間の可能性とその応用はまだまだこれからであ る。

この本を終えるにあたり、まず共同研究者の藤原みどりさんに深く感謝したい。キューバのリズムから手がけ、数年かけて時間に関する理 論的対話を続け てきたことが大きな意味を持った。また神戸大学において、3時間にわたる時間論の研究発表を許してくれた森岡正芳さん、参加者として有用な意見をくださっ たやまだようこさん、中村和夫さん、山口智子さんらにここに感謝の意を表したい。ありがとうございました。また各地の講演に音楽係兼アシスタントとして助 けてくれたミサチータこと兼松美里さんにも一言お礼を申し上げたい。さいごにはなるが、この本の内容に当初からつよい興味を持ってくれ、いろいろな助言と 共に辛抱強く書き直しを待っててくれた遠見書房代表の山内俊介さんには、前拙著『やさしいベイトソン』同様、心より感謝したいと思う。


著者略歴

野村直樹(のむら・なおき)

1950年生まれ。1987年スタンフォード大学文化人類学専攻(Ph.D.)。現在は,名古屋市立大学大学院人間文化研究科(教授)。
主な著書に,『やさしいベイトソン』(金剛出版,2008),『ナラティヴと医療』(共編,金剛出版,2006),『セラピストの物語/物語のセラピス ト』(共編,日本評論社,2003),『ナラティヴ・プラクティス(現代のエスプリ433号)』(共編,至文堂,2003),『ナラティヴ・セラピーの世 界』(共編,日本評論社,1999),アンダーソン著『会話・言語・そして可能性』(共訳,金剛出版,2001),マクナミー&ガーゲン編『ナラティヴ・ セラピー』(共訳,金鋼出版,1997)などがある。