カウンセリングのエチュード──反射・共感・構成主義
『カウンセリングのエチュード』── 反射・共感・構成主義
岡村達也・小林孝雄・菅村玄二著
定価2,400円(+税)、254頁、四六判、並製
C3011 ISBN978-4-904536-07-0
(紙媒体→品切れ;電子版のみ販売中です→https://tomishobo.stores.jp/items/5f7207918f2ebd0154d436ed)
カウンセリングとは何か? 本書は、ロジャリアンの中心的人物である著者ら3人による、楽しく、考えさせられるカウンセリングのテキストです。
初学者の入門の1冊としても、もちろん、中堅からべテランまでの再入門、ブラッシュアップにも役立ちます。明日の臨床が変わるでしょう。
・ロジャーズは、かの有名な3条件のなかで、共感すべし、とは言っていなかった?
・カウンセリングを認知心理学的に考えるとどうなる?
・構成主義的理解によるロジャーズとは?
・パーソン中心カウンセリングにRCTによるエビデンスがある?
以上、目からうろこの、まったく新しいロジャーズ=カウンセリング論。
おもな目次
第 I 部
「理解すること」から「いま-ここに-いること」としての「反射」へ
(岡村達也)
第1章 治療的人格変化の必要十分条件
理解すること
第2章 プリセラピー
反射
第3章 プレゼンス
いま-ここに-いること
第 II 部
共 感
(小林孝雄)
第1章 「共感的理解」という理解の仕方
第2章 「共感的理解」と,力動的精神療法における「共感」との比較
第3章 「共感的理解」のモデル化
第4章 「共感的理解」の定義の整理
「状態」と「プロセス」
第5章 「独我論」「純粋経験」を用いた面接場面の記述の試み
治療者の「わかり方」に関する記述の提示
第 III 部
構成主義の視角から見たロジャーズ理論――現象学,自己実現,受容
(菅村玄二)
第1章 「ロジャーズ現象学」を考えなおす
第2章 「自己実現」を考えなおす
第3章 「治療的人格変化の6条件」を考えなおす
はじめに
エチュード,それは,まず練習曲。ショパンのエチュード,しかし芸術です。カール・ロジャーズ,あるいは,クライアント中心療法,あるいは,パーソン中心療法は,私にとって,まるで練習曲のようです。いまの私たち各人なりに弾いてみました。
エチュードは,そして習作。セザンヌのエチュードはすさまじく(メルロ-ポンティ「セザンヌの誘惑」『意味と無意味』),リンゴが干からびてしまったとも言います。本書も,タブロー,すなわち完成した作品ではありません。いまの私たち各人なりの習作です。
最後にエチュードは,私にとっては,享年19で逝った原口統三のエチュード(『二十歳のエチュード』)。「認識するとは,生身を抉ることであり,血を流す ことであった」,「真の詩人は詩論を書かぬものであり,真の信者は信仰を説明しないものである」,「表現とは,所詮自己を許容する量の大小のあらわれにす ぎない。それは,正確に対して忠実・厳密でない,ということだ」。原口は,表現の虚偽を知り,その矛盾を表現し続け,「僕の誠実さが僕を磔刑にした」とも 言います。本書のいずこかには,そのような気風もあるかもしれません。私の思いにすぎません。
ピアジェの,邦題『思考の心理学』の原題をご存じでしょうか。Six Études de Psychologie(心理学に関する6つの研究)。邦訳は,「発達心理学の6研究」と副題します。本書は,1人の著者によらぬエチュードのオムニバ ス,すなわちTrois Études de Psychotherapieなるも,第?U部,第?V部は研究と認められかし。
第?T部 は,『パーソンセンタード・カウンセリングの実際―ロジャーズのアプローチの新たな展開』(Mearns, 1994[諸富監訳, 2000])の邦訳出版直後,同年,同書をテキストに,日本カウンセリング研究会本部で行われた講演にして,その後,全日本カウンセリング協議会発行の雑 誌『カウンセリング』の101号~103号(2001年~2002年)に掲載されたものがもとになっています。
第?U部は,小林孝雄さんによる,共感についての,継続中の一連の論考がもとになっています。もとになった論考をを記します。
第1章 2004年,「認知心理学からみたクライエント中心療法―『共感的理解』という『理解のあり方』の検討」村瀬孝雄・村瀬嘉代子編『ロジャーズ―クライエント中心療法の現在』日本評論社所収
第2章 2004年,「『共感的理解』の性質の整理―力動的精神療法における「共感」との比較から」『文教大学臨床相談研究所紀要』第8号所収
第3章 2005年,「『共感的理解』を体験している治療者の状態に関する理論的検討―認知理論と体験過程理論を用いた記述の試み」『臨床心理学』(金剛出版)第5巻第5号所収
第4章 2004年,「『状態』としての共感的理解の定義を再考する―ロジャーズの記述の比較検討」『人間科学研究(文教大学人間科学部紀要)』第26号所収
第5章 2008年,「『独我論』『純粋経験』を用いた面接場面の記述の試み」『人間科学研究(文教大学人間科学部紀要)』第30号所収
2005年の「独我論と共感的理解の接点を探る」『人間科学研究(文教大学人間科学部紀要)』第27号所収,もぜひご覧ください。
本主題に関する小林さんの最初の論考は,第3章のもとになった論考のもとになった論考です。それに私は,遅くとも2002年には接しており,小林さんと詳 細に検討もしました。公刊が2005年と遅くなってしまったこと,また,掲載誌の紙幅上,縮約されてしまったこと,がとても残念でしたが,今回,いくぶん かの復稿がなりました。
第?V部は,菅村玄二さんによる,構成主義の視角からのクライアント中心療法の再検討についての,一連の論考がもとになっています。もとになった論考を記します。
第1章 2000年,「クライエント中心療法についての構成主義的見解I―現象学的アプローチと自己実現傾向の再考」『人間性心理学研究』第18巻第2号所収
第2章 2002年,「クライエント中心療法における変化のプロセスの再 考―構成主義の立場から」『理論心理学研究』第4巻第4号所収
第3章 2003年,「カウンセリングの条件の再考―構成主義によるクライエント中心療法の再解釈を通して」『心理学評論』第46巻第2号所収
第1章のもとになった論考のもとは,1999年に,岡村が担当していた授業の中間レポートとして提出されたものでした。菅村さんは,上記3論考を含 め,『構成主義によるクライエント中心療法の再構築』をまとめ,学位を授与されています。遠からず,読みやすく,入手しやすいかたちでご覧いただけます。
1999年の菅村論考との出会い,2002年の小林論考との出会いは,私にとって,大変なインパクトでした。『ロジャーズ―クライエント中心療法の現在』 (村瀬孝雄・村瀬嘉代子編,日本評論社,2004年)に,それぞれ,認知心理学,構成主義から見たクライアント中心療法について寄稿をお願いした所以でし た。
各部とも,その発端は2000年前後にあり,10年前になります。はたして古いでしょうか。私としては,いまだこんなことさえ人口に膾炙していない! です。私たちの,ロジャーズを練習曲とした営み,また,私たちの習作は,タブローを産みえぬものであり,研究と言うにも値せず,「自己の真情を吐露しよう と欲することにおいて,罰せられている」(原口統三)のでしょうか。
ディスカションを強く望んでいます。
筆者を代表して 岡村達也
あとがき
I ――岡村達也
第 I部劈頭に記したように,この4半世紀,最も影響を受けた治療者第1位はロジャーズでした(回答者数2,281,複数回答可)。とこ ろが,回答者自身のアプローチはと言うと,「ロジャリアン/クライアント中心/人間性」は第5位(31%,707人;複数回答可)。みずからのアプローチ について単数回答者は4.2%(96人)でしたが,「ロジャリアン……」との単数回答者は1名でした。
記事は言います。みずからのアプローチとして第1位の認知行動療法をあげた回答者は69%(1,566人),もし「ロジャリアン……」をあげた31% (707人)が(足すと100%になります),認知行動療法をもみずからのアプローチとしていないとするなら,どうやって稼ぐのだろう? この,ブリーフ セラピー,エビデンス・ベースト(evidence-based)の時代,ロジャーズが行ったような治療には保険はおりないのに,と言います。
2006年のことです。本書書肆,遠見書房代表の山内俊介さんは当時金剛出版にあって,雑誌『臨床心理学』を創刊し,その編集人でしたが,『パーソン・セ ンタード・セラピー』(パートン著,日笠摩子訳,2006年)の編集中,同書文献欄から〈非指示カウンセリング〉に関するRCT(randomized controlled trial:無作為比較試験)の論文を見出し,これをご教示くださいました。今回あらためてPubMedを検索してみましたが,これを措いて紹介すべきも のが見当たりませんでした。以下の3つです。
1) King, M., Sibbald, B., Ward, E., Bower, P., Lloyd, M., Gabbay, M,. & Byford, S. (2000) Randomised controlled trial of non-directive counselling, cognitive-behaviour therapy and usual general practitioner care in the management of depression as well as mixed anxiety and depression in primary care. Health Technology Assessment, 4(19); 1-83.
2) Ward, E., King, M., Lloyd, M., Bower, P., Sibbald, B., Farrelly, S., Gabbay, M., Tarrier, N., & Addington-Hall, J. (2000) Randomised controlled trial of non-directive counselling, cognitive-behaviour therapy, and usual general practitioner care for patients with depression. I: Clinical effectiveness. British Medical Journal, 321; 1383-1388.
3) Bower, P., Byford, S., Sibbald, B., Ward, E., King, M., Lloyd, M., & Gabbay, M. (2000) Randomised controlled trial of non-directive counselling, cognitive-behaviour therapy, and usual general practitioner care for patients with depression. II: Cost effectiveness. British Medical Journal, 321; 1389-1392.
「(プライマリケアにおける)〈非指示カウンセリング〉〈認知行動療法〉〈一般医による通常のケア〉の,(不安・抑うつ混合状態も含め)抑うつ状態に対する無作為比較試験」です。
1)がもとの報告書で,パートンが引用していたのはこれでした。ジャーナルに発表されたものが2)と3)で,2)は治療効果について,3)は費用効果についてです。いくら治療効果があっても,費用効果もなければ,ということですね。
〈非指示カウンセリング〉は,ロジャーズ(『ロジャーズが語る自己実現の道』諸富祥彦・末武康弘・保坂亨訳,岩崎学術出版社,2005年)に拠るカウンセ ラーによって,〈認知行動療法〉は,『うつと不安の認知療法練習帳』,『うつと不安の認知療法練習帳ガイドブック』(グリーンバーガー,パデスキー著,大 野裕監訳,創元社,2001, 2002年)に拠る治療者によって行われました。原則,無投薬。〈一般医による通常のケア〉は,薬物療法中心と思えばいいでしょう。原則,心理療法なし。
2)の概要を,主としてそのアブストラクト(Abstract)をもとに紹介してみましょう。
【目的(Objective)】は,言うまでもなく,抑うつ状態に対する3者の効果の比較。
【研究デザイン(Design)】は,前向きの(prospective),患者による治療選択(patient preference)を容れた上での,言うまでもなく,無作為比較試験。
【場所(Setting)】は,ロンドンとマンチェスター。
【研究参加者(患者;Participants)】は,これまた言うまでもなく,不安・抑うつ混合状態も含め,抑うつ状態を呈する(627人からの)464人。
【治療(Interventions)】〈非指示カウンセリング〉〈認知行動療法〉は,原則,毎週1セッション50分が,まず6セッション,最大12セッションまで行われました。
【効果測定(Main outcome measures)】は,BDI(Beck Depression Inventory;ベック抑うつ質問票),抑うつ以外の精神症状,社会的機能,治療満足度の4つが,ベースライン,4カ月,12カ月の3時点で測定されました。
【結果(Results)】まず,どの治療でもいい,とした患者197人(42%)は,3つの治療に無作為に割り付けられました。この治療がいい,とした 患者137人(30%)は,希望する治療に割り付けられました。心理療法ならどちらでもいい,とした患者130人(28%)は,2つの心理療法に無作為に 割り付けられました(このpatient preferenceの数字自体,興味深いものがあります)。
次に,効果測度の1つ,BDIによれば,3群とも,結果的に有意な改善を示しました。
そして,3つの各時点における群間比較。4カ月時点,〈非指示カウンセリング〉〈認知行動療法〉が,〈一般医による通常のケア〉に比べて,有意な改善を示 しました。〈非指示カウンセリング〉〈認知行動療法〉の間には,有意な差はありませんでした。12カ月時点,3群に有意な差はありませんでした。
各群の平均値(標準偏差)の推移は,以下のとおりです。
〈非指示カウンセリング〉 25.4(8.6)→12.9(9.3) →11.8(9.6)
〈認知行動療法〉27.6(8.4)→14.3(10.8)→11.4(10.8)
〈一般医による通常のケア〉26.5(8.9)→18.3(12.4)→12.1(10.3)
【結 論(Conclusions)】は,抑うつ状態に対して,短期的には,心理療法(〈非指示カウンセリング〉〈認知行動療法〉)の方が,〈一般医 による通常のケア〉に比べて,より効果がある。しかし,1年後の結果には変わりはない,となります。3)によれば,費用効果も同じ結論です。
ど う思われますか? そのまま受け取って,〈非指示的カウンセリング〉に身びいきして言ってみましょう。1)まず,エビデンスがないとされている 〈非指示カウンセリング〉にも,エビデンスはある! 2)それは,エビデンスが確立されているとされる〈認知行動療法〉同様,効果がある! 3)さらに, 以上は平均値(の推移)にもとづくものですが,標準偏差(の推移)を見ると,数値から臆断するかぎり,〈非指示カウンセリング〉は,〈認知行動療法〉〈一 般医による通常のケア〉と比べて,ばらつきが小さい。平たく言えば,患者にとっての当たり外れが少ない! 以上,要するに,まずは〈非指示カウンセリン グ〉を受けなさい!?
それにしても,標準偏差の推移の数値から臆断するかぎり,治療を受けると,ばらつきが増すことになります。どんな治療にせよ,奏効する個人と,奏効しない 個人とに分かれてしまう,ということになります。その個人にフィットした治療を見出すこと,が専門家に課せられており,消費者(患者)にもそれを見きわめ ることが要請されている,ということでしょうか。
EBM(Evidence-Based Medicine)について最初に刺激を与えてくださり,名郷直樹を教えてくれたのも,山内さんでした。同じく,2006年のことではなかったでしょうか? 名郷の座右の書をあげておきます。
1999年 EBM実践ワークブック.南江堂.
2002年 続EBM実践ワークブック.南江堂.
2005年 EBMキーワード.中山書店.
2009年 ステップアップEBM実践ワークブック.南江堂.
本 書第I部が臨床〈実務〉,第II部が臨床(概念)についてとことん突きつめること(〈哲学〉),第III部が〈ナラティヴ〉だとします。とことん 突きつめることを身をもって教えてくださっている小林孝雄さん,社会構成主義について最初に刺激を与えてくださった菅村玄二さんとともに,以上のような山 内さんが立ち上げた出版社から本を出していただけるなんて,夢のようです。
こんな場所になってしまいましたが,〈ナラティヴ〉に対して〈エビデンス〉のことを記せてよかったです。本書のどこかにエビデンスのことも書いてくださ い,とは,山内さんの要請でした(山内さんはまた,ナラティヴ日本導入の出版サイドからの仕掛け人の一人です。斎藤清二を編集担当とした『N:ナラティヴ とケア』創刊号を,本書と前後して出されるようです)。
〈ナラティヴ〉〈エビデンス〉について,楽しい本をあげておきます。この程度は「臨床心理士」の常識となれ! 重ねて,2006年,山内さんのご教示により,上記斎藤の本です。
斎藤清二(2005)「健康によい」とはどういうことか.晶文堂.
all in all,本書が,現下本邦のカウンセリングや心理療法のなにかになにかを加えられていることを期します。
II ――小林孝雄
「エチュード」
フランス語étudeには,「勉強」「研究」などの意味のほかに,音楽の「練習曲」,美術の「習作」の意味が含まれます(田村毅ほか編(1985)ロワイ ヤル仏和中辞典 机上版.旺文社, 747)。「練習曲」としてのエチュードは,演奏技巧の修得を目的として書かれたもので,公開の席では弾かれないものから演奏会用のものまで存在します (堀内久美雄編(2008)新訂 標準音楽辞典(ア~テ) 第二版.音楽之友社, p.241.)。「習作」としてのエチュードには,技巧の修得を目的とした作品のほか,目指す作品を製作するための練習として作られた作品(絵画ならば素 描など)も含まれます。本書は,「研究」としてだけでなく,「練習曲」「習作」として位置づけることができるでしょう。
「練習曲」として
本書のタイトルは,「カウンセリングのエチュード」です。「練習曲」と位置づけるならば,本書を読むことが,カウンセリングに関する何かの修得につながることになるのでしょう。筆者は本書を読み,その視点から次のようなことを考えました。
岡村先生が書かれた第?T部について。プリセラピーの事例に関して,クライアントが,「こころの中にあった,象徴化ないし言語化できないものを,象徴化な いし言語化できた,そして,落ち着きを取り戻します」(p.36)と記されていました。これは,意味や体験世界の生成が行われた,とでも言うべきでしょう か。象徴化,言語化が,当人にとって持つ意味の重大さについて,考えさせられました。カウンセリングで行われうる,やりとりとその結果の,ひとつのレベル について,考える知るきっかけとなりました。
そして,「体験過程の水準で会う」ことの重要さが記されていました。クライアントの「体験過程にアプローチする」ことでもなく,クライアントが「自身の体 験過程に触れる」ことを援助することでもなく,「体験過程の水準で会う」という表現が指し示すものを,より明確に理解したい,と思いました。関連して,他 者とは何なのか,という問いが浮かびます。言葉・他者について考えることの練習ができる,難曲です。
筆者自身が書いた第?U部について。改めて読み返し,クライアントを理解するとはどういうことなのか,ということについて考える練習ができたと思います。 そして,そのことをもっと明確に記述したい,と思いました。また,「あたかも,かのように」という表現は,何について述べられている表現なのか。感じ取る 「内容」についてなのか,あるいは「感じ取り方」についてなのか,あるいは両方なのか,考える必要を感じます。ロジャーズの1975年論文の意義について も,改めて検討したいです。
菅村先生が書かれた第?V部について。ロジャーズ理論の意味や意義について,構成主義や社会的構築主義,自己組織化理論,愛着理論などから,検討されてい ました。ロジャーズ理論を,理論として検討する作業を練習することができる,絢爛な曲です。ロジャーズ理論のうち,他の理論で覆われていく部分がどこまで で,覆われずに残る部分はどこなのか,明確にしてみたくなりました。
本書は,カウンセリングについて何かを修得するための,一つの「練習曲集」ということができるでしょうか。
「習作」として
何か目指すべき作品を製作するための「習作」と本書を位置づける視点から,次のようなことを考えました。
各部それぞれが,異なる3つの作品のための習作のようでもあり,あるいは,3部が一つの作品のための習作のようでもあるように思います。
特に第?T部について。「わたし(の体験)」の言葉による生成,および,「わたし(というもの)」の他者による生成,に関する作品のための習作といえるよ うに思います。言葉によって体験が区画され,輪郭付けられることが,「わたしの体験」の生成である,また,「わたし」の成立には他者の存在(プレゼンス) が必要である,ということが表現されているように思いました。
特に第?V部について。「世界」はどのように生成されているか,「自分」はどのように生成されているか,に関する作品のための習作といえるように思いま す。‘こうなっている’と当たり前のようにとらえている世界や自分の意味が,実は‘どうなっている’のか,ということが表現されているように思いました。
第?V部第2章で,ヴィーコによる,「思考を存在の原因とするのは論理的誤謬であり,思考は存在の徴候にしかなりえないことを論証し,逆に『物体と知性と から成り立っているからこそ,私は思考するのであって,物体と知性は結合してはじめて思考の原因なのである』」(p.174),というデカルトへの反論が 紹介されていました。それについて次のようなことを考えました。
「われ思う,ゆえにわれあり」を,「今まさに思っている,このことは私にとって疑えない。『思い』がある,と端的に言わざるをえない」という意味でとらえ るならば,「物体」や「知性」は,「思い」がまずあってその中で成立した概念なのですから,「思い」の原因ではない,ということもできると思います(永 井, 2006, pp.30-31を参考にしました)。
仮にそうとらえると,第?V部で述べられている「自己組織化」理論は,「思い」がまずありその後に成立した(はずの),「物体」や「知性」といった概念を 含む,世界や自分に関する意味のレベルについてあてはまる理論であると同時に,「思い」そのものの働き,「思い」の中で何事かが生成されるレベルにもあて はまる理論であるように思います。例えば,前者を「世界」「自分」の成立のレベル(第?V部),後者を「わたしの体験」「わたしそのもの」の成立のレベル (第?T部),というふうに,表現してみたくなります。しかしこの表現はあくまで暫定的なもので,より正確な表現に向けて吟味しなければなりません。いず れにしても,何か根本的なものの成立事情に関する一つの作品に,第?T部も第?V部も向かっているように思います。
第?U部が,その作品にどうかかわるのか,現時点でははっきり思い描けません。「わたし」と「他者」,というような方向から接点を持つ予感はします。
いずれ,本書を習作とした,単独の作品あるいは合作が製作されるのかもしれません。ところで,本書のタイトルは「カウンセリングのエチュード」でした。す ると作製される作品とは,「カウンセリング」なのでしょうか。その製作にはおびただしい数の人が携わってきました。そこに私たち3人も含まれるのでしょ う。
最後に
本章第?U部は,ロジャーズが記述しようとした状態を理解しようとする,筆者の作業の報告です。筆者にとっては,けもの道をなんとか歩いたような感じで す。しかし実はすぐ近くに,もっと楽にたどりつける,舗装された歩きやすい便利な道があったのかもしれない,との思いもあります。しかし,舗装道路ではな く,けもの道を歩いたことで,自分にとっては何かの練習になったと思います。その意味でも,筆者にとってエチュードです。
岡村達也先生には,かつて本書第?U部第3章の原型となった論文を検討していただきました。その時いただいたコメントから,自分が考えていることは学問的に何か意味があることかもしれない,と思うことができました。それは大変な励みでした。
菅村玄二先生には,既存の学問の枠組みにとらわれない縦横無尽な考察を見せていただきました。ものを考え,表現することの醍醐味を教わりました。
遠見書房の山内俊介代表の励ましと忍耐のおかげで,原稿を完成することができました。
本当にありがとうございました。
III ――菅村玄二
こ の本のあとがきを書くにあたって,次の3つの条件がありました。それは,「三者三様に」,「全稿を読み」,「異論・反論・オブジェクション」を行うとい うものです。最初の2つは,とりあえず読んで,普通に書けばクリアできる条件です。問題は3番目の条件で,これについては普通に読んで書くだけでは満たせ そうにありません。
というわけで,何かしら反論しなければ,と思い,あら探しをしながら,他の二人の著者の章を読んでみました。だいたい,研究者というのは,先行研究のあら 探しをして食っているわけで,非の打ち所がなく,完璧な研究などがあると,商売あがったり状態になってしまいます。なので,わりとこういうことには慣れて いるのです。
しかし,今回はほとほと困り果ててしまいました。それはお二人の論考が完璧だったから……,ではありません。お二人が書かれている内容を読んで,改めて自 分が書いていることがズレているように思えてならなかったからです。そういうふうに思ってしまうと,反論どころではなく,むしろ,次から次へと出てきたの は,私の論考に対する「異論・反論・オブジェクション」でした。上の条件をよく読むと,自分の論考に対する反論であってはいけない,とは一言も書いていな いので,これについて書けば上の3条件を満たす,と思ったのですが,列挙していくとキリがありません。
そこで,ここでは,お二人の論考を通すことで,私自身が得られた自分の章に対する異論と,そこから少し考えたことを,数点だけ書くことにします。順不同でいきます。
共感と共感的理解
「共感」と「共感的理解」という用語の区別については,実は以前,保坂亨先生にもご指摘を受けたことがあったのですが,そのときは,単に同じ意味で使って います,と答えました。英語表現の場合,日本語と異なり,同じ表現を繰り返し使用することは,一般に避けるべきこととされますので,ロジャーズ自身は,単 なる言葉の置き換えとして使っていたのではないか,と考えたからです。
しかし,小林・岡村論考では,これらの言葉がそれぞれ綿密に吟味され,それらの概念が明確化されています。これを読むと,「理解」という言葉一つとって も,私がいかにいい加減に使っていたかがよくわかりました。自分の章ではどのような意味で使っていたのか,構成主義では「共感」や「理解」をどのように捉 えているのか,などいろいろ考えさせられました。1つには,構成主義心理療法では,セラピストが何をもって「わかった」とするかには明確な基準がなく,ま た,その理論からはセラピストの「わかる」という体験の重要性は導き出されないのではないか,とも考えましたが,まだ自分なりに納得のいく答えは出ていま せん。ありがたく,今後の課題とさせていただきます。
セラピストの体験
ロジャーズが,受容や共感を「する」ことよりも,そのように感じて「いる」という「体験」について述べていた,というくだりがありました。たしかに,原文 には明確にそのように書いてあります。「する」こととして捉えていた人(私も含む)には目から鱗です。ロジャーズの「体験」の定義が,心理的・認知的なレ ベルであったことから考えても(第?V部第1章),ロジャーズは受容や共感をセラピストの心理的な,内的世界で完結するものとして捉えていた,といえるか もしれません。だからこそ,「伝達」が別の条件として加えられている,とも考えられます。
構成主義においても,「体験」という言葉は頻出しますし,重要な概念の一つになっていますが,ロジャーズと異なり,より身体的なレベルと,環境への能動的 な働きかけのニュアンスがより意識されているように改めて感じました。たとえば,しばしば指摘されることですが,体験の原語である “experience”は,“out of”を表す“ex-”と“tested”を意味する“peritus”というラテン語に由来します。そのため,受容や共感を「体験」するという言明に, 受容や共感といった状態を「自分の外で試す」という含意がどこかにある,という点にも留意しておきたい,と思いました。
伝達の条件
セラピストが「一致」,「受容」,「共感」を体験していたとしても,それがクライアントに伝わらなければ意味がない,という議論もありました。ソーシャ ル・サポートも,それ自体が存在することよりも,それが本人に知覚されてこそ意味をもちますので,より正確に,“perceived social support”などと表現されることとよく似ています。
そう考えたときに,いつも思うのは,「では,知覚さえあれば,ソーシャル・サポートは必要ないのか?」という問題です。推測の域を出ませんが,支えてくれ る家族や友人が実際にはいなくても,本人がそのように思い込んでいれば(妄想でも構いません),実際にソーシャル・サポートを受けている場合と,同等の効 果があるのではないか,と想像します。もちろん,経済的なサポートは直接には受けられないでしょうから,情緒的なサポートに関していえば,です。
同様に,セラピストが,実際には,一致しておらず,受容も共感も体験していないとしても,セラピストがそのように体験している,とクライアントに知覚され れば(錯覚でも構いません),セラピストの一致・受容・共感は必要ではなくなるのでしょうか。仮にそうだとすると,伝達の条件こそ十分条件であり,セラピ ストの3条件は必要条件ではない,ということになります。プレゼンスすら,包摂しうる条件にもなるのかもしれません。あまり,実際的な話ではないかもしれ ませんが,理論的な検討課題として,軽く問題提起しておきます。
プレゼンス
クライアントと「いま-ここに-いること」がカウンセリングの根本的条件である,という指摘がありました。話している内容を理解するのではなく,クライア ントの体験過程に近いところにいることが大切である,という記述を読んで,Thomas Greening先生からスーパービジョンの際に言われた,衝撃的な言葉を思い出しました。それは,“The best therapist is a deaf therapist.”というものです。うろ覚えなので,表現は少し違うかもしれません。誰か有名なセラピストが言った台詞だと聞きましたが,それも誰か 忘れてしまいました。耳が聞こえないセラピストであれば,話の内容を理解する代わりに,「いま-ここに-いること」に懸命になるという,プレゼンスのこと だったのか,と改めて概念化できました。
このプレゼンスという概念には,スピリチュアルな含意があり,セラピストの「今ここ」の「ありよう」を重視することから,マインドフルネスとも共通する点 が少なくないような気がします。ただ,それらがどのような関係にあるのか,今はよく整理できていません。マインドフルネスは仏教瞑想に由来する言葉なの で,西田哲学と関連するのも,ある意味,当然ですが,プレゼンス,マインドフルネス,独我論,純粋経験,場所などの関係について,今後,ぜひ検討してみたくなりました。
先に,岡村・小林論考と自分の論考との間に「ズレ」を感じた,と書きました。そのズレがどこから来ているのか,と思いを巡らせてみると,いろいろと思い当たる節があります。
まず,お二人がどちらかというと,クライアント中心療法の,いわば「内側」の視点から考察されているのに対して,私は構成主義という「外側」の立場からク ライアント中心療法を見ています。また,お二人の論考が日々の臨床実践に深く根ざしているように感じられるのに対して,私は理論的な面にばかり注目してい ます。この2つは,本書を執筆する前から薄々思っていたことではあります。
もう1つは,全稿を読んでみて,改めて気づいた点です。それは,想定している読者の違いです。クライアント中心療法が心理療法基礎論であるならば,そし て,本書が「カウンセリングのエチュード」である以上,多かれ少なかれ,カウンセラーやカウンセラーになりたい学生などを読者層として想定していることは 間違いありません。ただ,私自身の印象では,どちらかというと,岡村論考は,クライアント中心を自認しているものの,それを履き違えている「似非ロジャリ アン」に向けられ,小林論考は,クライアント中心療法を無批判的・没反省的に理解しているカウンセラーに向けられているように感じました。それに対して, 私は,クライアント中心のカウンセラーではなく,従来の認知行動療法に代表される,クライアント中心療法に否定的な立場の心理学者を想定して書いていたよ うに思います。
本稿は,クライアント中心療法の理論と実践について,構成主義の枠組みから読みなおすという体裁をとっています。実際,本稿の目的は,構成主義からクライ アント中心療法を捉えなおすことである,と書きました。しかし,本当の目的は,というと,語弊があるかもしれませんが,本稿を書いていたときの私自身の目 的は,クライアント中心療法をただ理解することでした。その理解に際しての前知識として,構成主義があったにすぎません。と同時に,クライアント中心療法 を学ぶ過程で,構成主義の理解も深まっていったように思います。その意味で,本稿は,私自身が,クライアント中心療法を理解するために,構成主義と対比 し,また構成主義を理解するために,クライアント中心療法と対比した,そのプロセスを文字に起こしただけの記録なのかもしれません。
最後になりましたが,そもそも,クライアント中心療法を学ぶ機会を与えてくださった岡村達也先生,クライアント中心療法の理解についての理解を助け,また 反省する機会を与えてくださった小林孝雄先生,そして,予定を大幅に遅れ,脱稿する気配すらなかった私を,忍耐強く励ましてくださった遠見書房の山内俊介 代表に,ここに深く感謝の意を表します。
著者略歴
岡村達也(おかむら・たつや)
1985年,東京大学大学院教育学研究科第1種博士課程退学。文教大学人間科学部心理学科教授
主な著書:『カウンセリングの条件―クライアント中心療法の立場から』(日本評論社,2007年),『カウンセリングを学ぶ―理論・体験・実習 第2版』(共著,東京大学出版会,2007年),『思春期の心理臨床―学校現場に学ぶ「居場所」つくり』(共著,日本評論社,1995年)
小林孝雄(こばやし・たかお)
2000年,東京大学大学院教育学研究科博士課程中途退学。文教大学人間科学部心理学科准教授。臨床心理士
主な著書:『臨床心理の問題群』(共著,批評社,2002年),『ロジャーズ辞典』(共訳,金剛出版,2008年),『ヒューマニスティック・サイコセラピー ケースブック2』(共著,ナカニシヤ出版,印刷中)
菅村玄二(すがむら・げんじ)
2008年,早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。関s西大学文学部助教。博士(文学),臨床心理士
主な著書:『エマージェンス人間科学―理論・方法・実践とその間から』(共著,北大路書房,2007年),『複雑系叢書2―身体性・コミュニケーション・ こころ』(共著,共立出版,2007年),『認知行動療法と構成主義心理療法―理論,研究そして実践』(監訳,金剛出版,2008年)
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