定年外科医,海外医療ボランティアに行く

定年外科医、海外医療ボランティアへ行く

菅村洋治 著

定価1,500円(+税)、220頁、四六版、並製
C0030 ISBN978-4-904536-58-2

世界には日本の医療者を待っている人たちがいる

ケニア,パキスタン,エチオピアなど紛争地域への医療支援活動の経験,ナイジェリア,コンゴ,イランなどへ医療活動に行った「国境なき医師団」や,日本の海外医療派遣団体への参加体験記など,定年後に外科医として行った医療ボランティアを飄々とつづりました。

愉 快で痛快,そして,現実の壮絶さに悲しくもなる,とっておきの1冊です。 「コンゴ領内に入ったとたん、道路は悪路と化し、ルワンダとの国力、政情の差を実感させられた。幹線道路はおおむね安全であると聞いていたが、要所要所に は樹木でカモフラージュした見張り所があり、この地域の緊張が窺い知れた。(こりゃまた、とんでもないところに来てしまったなあ)と後悔したがもう後の祭 りである。」

本書の詳しい内容


おもな目次

第1部 海外医療活動

第1章 ハンセン病

第2章 ケニア共和国
(1)ナイロビからナクールへ
(2)ナクール病院
(3)満  床
(4)ナクール湖
(5)帝王切開
(6)子宮破裂
(7)トゥルカナ族
(8)熊本大学アフリカ現地人体質学術調査隊
(9)体重を減らしたいならアフリカ勤務
(10)クーデター
(11)山  羊
(12)ケニアの外科
(13)空飛ぶ名車
(14)その後のケニア

第3章 エチオピア
(1)内戦と干魃
(2)国際救急医療チーム(Japan Medical Team for Disaster Relief =JMTDR)
(3)メケレ難民キャンプ
(4)天幕病棟の患児たち
(5)避難民キャンプ医療
(6)コーヒーセレモニー
(7)浴衣と白衣
(8)キスの嵐
(9)日本からの援助
(10)アンケート
(11)飛行機のヒッチハイク
(12)首都アディスアベバ
(13)エチオピアからの手紙

第4章 国境なき医師団(MSF)
(1)なぜ国境なき医師団に?
(2)国境なき医師団とは

第5章 ナイジェリア連邦共和国
(1)ポートハーコート
(2)テメ外傷センター
(3)ナイジェリア人のガッツ
(4)集団災害机上訓練
(5)C嬢のこと
(6)平和大国日本と中高年の国際貢献
(7)現地生活

第6章 イラン共和国

第7章 コンゴ民主共和国
(1)ルワンダから陸路コンゴへ
(2)ルチュル病院
(3)YOJIという名の赤ちゃん
(4)妊婦の悲運
(5)漆黒の中の感動
(6)スワヒリ語
(7)通訳B君のこと
(8)物言わぬは腹ふくるるわざなり
(9)究極のエコ・カー
(10)その後のコンゴ

第8章 スリランカ
(1)日本の大恩人
(2)スリランカ内
(3)落とし穴

第9章 パキスタン

第10章 東日本大震災

第11章 ハイチ共和国

第12章 人権集会

第2部 運は天にあり

第1章 忘れられない患者
(その1)死亡確認
(その2)「おおきに。もうよか」
(その3)畳の上で死ぬ
(その4)坊主か医者か?
(その5)年はとっても
(その6)医療過誤
(その7)直腸指診

第2章 忘れられない医者
(その1) Y先生の贈り物
(その2)「Oちゃん、またな」(O君の追悼記)
(その3)「まだ生きとる」
(その4)岳友H君
(その5)巨星堕つ─TEXAS MEDICAL CENTERと人間国宝Dr. DeBakey
(その6)あやさん
(その7)胸部外科のパイオニア
(その8)Y医師のがん体験

第3章 元旦の誕生日

第4章 Janglishで楽しむ国際学会

第5章 中国湖南省児童医院

第6章 心優しき恩師たち

第7章 提琴抄(?古希の夢?に寄す)

第8章 運は天にあり


序章

「一度アフリカの水を飲んだ者は、必ずまたアフリカへ戻ってくる」という言い伝えがある。 ケニア生まれの長男が結婚した。結婚披露宴をしなかったので、家計に余裕ができたのか、それともたまには親孝行でもしようと思ったのか、「新婚旅行にケニ アへ一緒に行こう!」と私と家内を新婚旅行に招待してくれたのだ。 思えば三十五年間、いつも私の気持ちの片隅で蠢いていたケニアである。息子夫婦の申し出を断る理由はない。
長男は生まれ故郷を自分の目で確かめ、原点に立ち、これからの新しい人生への出発点としたい、と考えていたようだ。
二〇〇七年十二月二十五日、親子四人、あの懐かしいアフリカ特有の熱気とひといきれに満ちたケニヤッタ空港に降り立った。
長男が生まれたのはケニアの首都ナイロビから北へ百二十キロメートル、ナクール市にある戦勝記念病院(War Memorial 病院)である。私が一年あまり勤務したリフトバレー州立ナクール病院に隣接している。
ナクール病院を訪れた。
白い壁、赤い屋根の病院、中で働く看護師たちのピンクのかわいい帽子とユニホーム。何も変わっていなかった。さすがに病院職員は入れ代わっていたが、三十五年前と同じように入れ替わり、立ち替わり、陽気に歓迎してくれた。
息子が生まれた病院の産室に足を踏み入れたとたんに、三十五年前にタイムスリップした。回復室のベッド脇に置いてある天秤式赤ちゃん体重計も、三十五年前のあの日のままだった。
異国での初産の苦労を思い出したのか、感激一杯の家内の眼には涙があった。かつて青春の一時期を過ごした思い出が走馬灯のように脳裏をめぐった。
「よし! もう一度アフリカの地で医療活動をした、あの感動の日々を取り戻そう!」と決意したのがその時だった。


あとがき

浅学非才の私が、曲がりなりにも外科医として、開発途上国や災害被災国、あるいは政情不安な国の人々のために、医療を通じて貢献ができたのは、三つの大きな幸運に恵まれたためである。
第一の幸運は一九六八年の長崎大学医学部第一外科入局以来、素晴らしい先輩、同僚に恵まれて、医師としての道、外科医としての技術を習得することができたことである。
特に、一九七三年に日本国海外技術援助プロジェクトの一環として、長崎大学から、ケニア共和国ナクール病院に、一年間出張を命じられた時の体験を通じて、開発途上国で医療に従事することの厳しさと喜びを、目の当たりにすることができた。
また、エチオピアが未曾有の大干魃に襲われて、多くの犠牲者が出た一九八五年には、日本災害緊急医療チームの一員として、エチオピアの飢餓難民キャンプで医療活動する機会を得た。
この二度の貴重な体験、そして医学生時代のハンセン病療養所での苦い体験が、その後の私の医師としての生き方の原点となっているように思う。
第二の幸運は、地域救急医療のパイオニアであった佐世保中央病院で、これまた素晴らしい先輩・同僚に支えられて、三十数年間勤務できたことである。
その間、胸・腹部外科のみならず、脳外科、整形外科など他科の基本的診療手技をも鍛えられたことが、定年後のMSFやHuMAでの活動に役立った。
最大の幸運事は、私の若い時からの夢、?開発途上国での医療活動?を理解し、MSFやHuMAへの参加を支えてくれた妻、利江子と二人の息子、大全、玄二、娘のそのこの存在である。心からの謝意を表したい。
昨今、老人性健忘症は進行しているが、これからもシニアボランティアとして、体力の許す限りはもう少し、医療活動を続けたいと願っている。
最後に、本書をしたためるにあたり、遠見書房の山内俊介氏に多大なるご協力をいただいた。心から謝意を表する次第である。

(追記)
三カ月前に本原稿を脱稿した。ここで本書は終わるはずだったが、二カ月前に突如我が身に一大事件が降りかかった。息子がおもしろいから、とその顛末を本書 に加筆するように言うので、仕方なく「Y医師のがん体験」を追加した。そう、ついに私自身が忘れられない患者兼医者になってしまったのである。


著者略歴

菅村洋治(すがむら・ようじ)
1942年1月1日生まれ。
1960年 長崎県立佐世保北高等学校卒業。
1967年 新潟大学医学部卒業。同付属病院でインターンシップ終了後、長崎大学第1外科教室入局。
1973年 ケニア共和国リフトバレー州立病院勤務。
1975年から社会医療法人財団白十字会佐世保中央病院に勤務。その間、長崎大学心臓血管外科非常勤講師、世界心臓胸部外科学会評議員、佐世保外科医会会 長などを勤める傍ら、1985年には日本国海外緊急医療チーム(JMTDR)の一員としてエチオピア難民キャンプに赴く。2006年定年退職後は、国境な き医師団(MSF)あるいは災害人道医療支援会(HuMA)のメンバーとして、ナイジェリア、イラン、コンゴ、スリランカ、フィリピン、パキスタン、東日 本大震災、ハイチで医療救援活動に従事。71歳、未だ現役外科医として活躍中。)

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