子どものこころを見つめて ──臨床の真髄を語る

『子どものこころを見つめて』
──臨床の真髄を語る

(クリニックおぐら)小倉 清+(村田子ども心理教育相談所)村田豊久 対談
聞き手:(大正大学教授)小林隆児

定価2,000円(+税)、154頁、四六版、並製
C3047 ISBN978-4-904536-29-2

孤高の児童精神科医・小倉清と村田豊久が語りつくす
子ども臨床の世界

「発達障碍」診断の濫用は逆に子どものこころを置き去りにし、今や脳は見てもこころは見ない臨床家がどんどん産み出されている──そうした現実のなか,二人の児童精神科医が子どものこころの臨床の神髄を語る。
小倉清と村田豊久による座談会。聞き手は,小林隆児。子どもへの温かさ,児童精神医学への思いが語られる。

本書の詳しい内容


おもな目次

一、子どものこころの臨床をめぐって

子どもの精神科医療の現状
国際診断基準DSMについて
どのようにして子どもの精神科医になったか
子ども時代と戦争体験
読書と映画に没頭した思春期
子どもをいじめた体験
子ども時代のPTSD
乱暴だった子ども時代
ドストエフスキーに救われた
子ども時代の体験と子ども理解
子どもへの同一化
面接と陪席
子ども臨床の醍醐味
鋭い観察力を生んだ子ども時代の体験
忘れられない子ども時代のエピソードの数々
子どものこころの「不思議」に感激する
子ども時代の惨めな体験
男の子への優しさが生まれた背景
前思春期の臨床の面白さ
小学五年の時のエピソード
自分の過去を振り返ることの大切さ
乳幼児期の体験が人生の核
犯罪者に対する強い好奇心
人間に対する飽くなき好奇心
乳児観察の大切さ

二、昨今の発達障碍ブームについて

何でも発達障碍という時代
障碍の理解と子どもの理解
脳の異常と心の問題は別物
母原病時代の反動
精神医学と自然科学
アスペルガーとカナー
臨床におけるエビデンス
障碍を持つ子の生き様を描く
親子の間で起こる劇的な変化
鳥肌が立つような臨床の醍醐味
臨床の勘所
自分に対して正直であることの大切さ
学会発表での傷つき体験と奮起

対談を終えて

小倉 清
村田豊久
小林隆児


はじめに

わが国で子どものこころの臨床の重要性が声高に叫ばれるようになってきたのはつい数年前のことであった。その大きな契機となったのは、凶悪犯罪が社会の注 目を浴び始めるとともに、罪を犯した子どもや大人の精神鑑定で「発達障碍」が盛んに取沙汰されるようになったことである。以来、世の人々には「発達障碍」 という診断名は深刻で恐ろしい響きをもって受け止められていったのではないであろうか。子どもが発達になんらかの問題を持っていると、将来とんでもないこ とを引き起こしかねないという警戒心さえ生まれたかもしれない。そんなことが契機となり、子どものこころの臨床への関心が高まったため、臨床医は子どもを 診る際に、「発達障碍」ではないかという疑いを常に念頭に置くことになった。人間誰でもそうなのだが、これまで捉え所がなくてどう把握すればよいか戸惑っ ていたことに対して、なんらかの目新しい概念が提起されると、それとの照合を盛んに行いたくなる。さらに、そこでなんらかの共通項を発見するならば、こ ぞってその概念に飛びつきやすいものである。案の定、「発達障碍」なる概念は、臨床医にとってそのような魅力を持っていたのであろう。子どもに対してはも ちろんのこと、成人に至るまで、「発達障碍」なる診断名が適用されるようになった。その波及効果は信じられないほどであった。子どもでも大人でも、不可解 な言動を示すケースに遭遇すると、まず念頭に浮かべるのは「発達障碍」ということになっていった。そして、「発達障碍」と診断された子どもや大人は、当事 者はもちろんのこと、周囲の者までも、その将来に対する不安も増大するようになった。
***
そもそも子どもの発達の問題は、精神遅滞の提唱から始まったものであるが、「発達障碍」なる疾病概念が、急速にわが国で浸透していったのは、アメリカで作 成されたDSM‐?Vの導入が直接の契機であった。自閉症をはじめとするさまざまな発達上の問題を持つ子どもたちが話題になったことによる。その中でも最 大の関心事は、知的障碍の有無にかかわらず、その対人関係の障碍をもつ自閉症をはじめ、類似の障碍を示す子どもたちが広汎性発達障碍と称されるようになっ たことである。カナーが提唱した「早期幼児自閉症」については、当初はかなり厳密に用いられていたのだが、この「広汎性発達障碍」という概念が生まれるに 至って、対人関係の問題を持つ子どもたちに対して急速に適用されるようになっていった。とりわけ自閉症や広汎性発達障碍が劇的に広がっていったひとつの大 きなきっかけとなったのは、アスペルガー障碍の登場であった。実はアスペルガー障碍をわが国でいち早く取り上げて治療例を報告したのは、本書で登場する村 田豊久先生のグループだった(「大学入学後に精神病的破綻をきたし抑うつ自殺企図まで示した十九歳のアスペルガー症候群の一例」児童青年精神医学とその近 接領域、第二八巻、二一七‐二二五頁、一九八七年)。しかし、当時はまったくといっていいほど話題になることはなかった。わが国で流行が始まるのは、必ず 外国、とりわけ欧米国圏からの輸入に始まることが多いが、アスペルガー障碍の場合も例外ではなかった。その広がり方は尋常ではなかった。数年の間に一気に 広がり、子どもの精神医学領域のみならず、大人の一般精神医学の領域においても大きな関心を引き、つぎつぎと成人のアスペルガー障碍と診断される事例が報 告されるようになったのである。
***
「発達障碍」とは何か、その概念があまりにも曖昧なままに乱用された結果、今では信じられないほど多くの事例が「発達障碍」といわれるまでになったのであ る。では、これほどまでに「発達障碍」が関心を引いたことにより、「発達」についても理解が深まっていったのであろうか。信じられないことだが、「発達障 碍」という概念の登場は逆に「発達」についての理解を拡散し、単純化していったのではないかとさえ思われるのである。もともと、「発達」という現象は、一 般的に右肩上がりの能力獲得と能力向上という、明るくて肯定的なイメージが強かった。それに比して「発達障碍」はその逆に、一生涯なんらかの能力障碍がつ きまとう、暗くて否定的なイメージが強い。そもそも、人間のこころも種々の能力も、発達過程の中で培われるものであるが、それは胎生期から周囲の環境との 不断の交流の中で展開していくものである。とりわけ、胎内からの誕生を通して、個体として世に出てから、子どもは、とりわけ身近な他者の存在との濃密な交 流を通して、成長・発達を繰り広げていく。そこでは素質そのものも重要であるが、それに劣らず環境の役割も重要であることは自明のことである。人間は常に 「関係」の中で成長・発達するということは至極当然のことであるはずである。子どものこころの臨床に取り組む上で、この「関係」の中でいかに子どもは成 長・発達を遂げていくか、そのプロセスを丁寧に追いかけていくことは不可欠な作業である。そのこと無くして、子どものこころの臨床などできるはずはないと 思うのだ。
***
二十一世紀は脳の時代だという国を挙げての科学推進広報活動が、今や多くの人に、脳研究が発展すれば、人間の心やその病理も解明されて、すばらしい時代が 来るのではないかという幻想を与えつつあるように思えてならない。しかし、本年三月十一日に起こった東日本大震災によって引き起こされた原発事故は、近代 科学の進歩がもたらした象徴的な出来事であったはずである。それは人災だと皆が認めるように、近代科学の成果が時として取り返しのつかない大惨事を引き起 こすことがいみじくも証明されたのである。それでもなお脳科学の進歩が人間の幸福につながると信じようというのであろうか。
個別の歴史を抱えた存在であるひとりひとりの子どものこころの問題を理解し、なんらかの援助を行う営みを遂行することなくして、「発達障碍」を脳の障碍に 起因しようとする昨今の風潮が、いかに子どものこころの理解を妨げているか、日々痛感するのだが、こころの問題を脳の問題とあまりにも安直に関連づけてい ないだろうか。
児童精神科医の現状を見渡すと、子どものこころを見つめるどころか、子どもの表面に現れた症状や障碍にのみ目を奪われ、国際診断基準を伝家の宝刀のごとく 振り回して、その原因探しに奔走しているようにさえ見えてしまうのだ。本来ならば子どものこころに最も身近な存在として寄り添わなければならない児童精神 科医がそんな現状では、子どものこころの臨床はこの先どうなっていくのであろうか。
なぜこれほどまでに子どものこころの臨床は衰退していったのであろうか。そのような事態の深刻さを憂い、少しでも新たな流れを産み出したいとの思いで、私 は今回の企画を思いついたのだが、その動機の一つは、六年近く前に発刊された、村上靖彦・永田俊彦・市橋秀夫・中安信夫著『座談 精神科臨床の考え方―危 機を乗り越えるべく』(メディカルレビュー社、二〇〇五年)を読んだことにある。この書は一般精神科臨床の現状に対する強い危機意識を持つ面々が一堂に集 まり、二日間かけて議論した内容を書にまとめたもので、当時多少なりとも評判になったものである。

今回の企画は、このような私の問題意識 をもとに、昨今の「子どものこころの臨床」について、率直に感想をぶつけながら、子ども臨床の本来あるべき 姿、あるいはその魅力などを語り合いたいとの思いから生まれた。具体的な語り手として、私は小倉清先生と村田豊久先生にお願いすることにした。お二人につ いては、わが国の子どものこころの臨床を推進してこられた第二世代の精神科医と見なされる先生であるが、その臨床の素晴らしさについてはよく知られてい る。
***
ここではお二人の先生の経歴について、簡単にご紹介しておきたい。
小倉清先生は昭和七年九月、和歌山県新宮町(今の新宮市)にてお生まれになり、現在七十八歳になられている。昭和三十三年、慶應義塾大学医学部を卒業され たが、当時のわが国の精神科医療に飽き足らず、翌年、アメリカのメニンガー・クリニックに留学された。以来、八年間にわたり、海外生活を送られて帰国、そ の直後の昭和四十二年、当時結核療養所からの機能転換の時期にあった関東中央病院に職を得て、そこで精神科思春期病棟を創り、文字通り孤軍奮闘しながら、 わが国の思春期精神科医療の礎を築かれたことはつとに知られている。そこを定年退職後、平成八年から「クリニックおぐら」にて今日まで地道に臨床活動を続 けられている。
私が小倉先生に身近に接してみて痛感することはいくつもあるのだが、その中でも驚きを禁じ得ないのは、かなりのご高齢になられているはずなのに、今でも周 りを圧倒するほどの存在感を醸し出しておられることである。いつも自然体で自分の感じていることを率直に語られているが、その語りの中身の鋭さは、未だに 衰えを知らない。強靭な臨床力と精神力にただただ圧倒されるのである。先生の講演などに居合わせると、先生の正直さ、率直さ、聡明さ、相手の話を理解する 鋭敏さ、そして相手から話を引き出す独特な語り口などに、つい引き込まれ、感動なくして聞くことはできないのである。
小倉先生は精神科医になられた当初から常に臨床一筋で来られた方で、学究肌の先生ではないため、研究論文は初期に書かれたのみであるが、その臨床実践の中 身の凄さについては、四巻からなる『小倉清著作集』(岩崎学術出版社)に余すところなく著されていると思う。小倉先生の最大の魅力は、講演などによる語り にあると思うが、実は文章も語りと同様に自然体で記されていて、読む者のこころを立ち所に捉えてしまう魅力に満ちている。今回の対談の企画は、先生の魅力 を引き出すには格好の場ではないかと密かに期待しながら場に臨んだという次第である。

村田豊久先生については、私の最大の恩師であり、あまりにもいろいろと存じ上げているゆえ、かえって改めてこのような形で紹介するのも面映い感じがしないでもない。
村田先生は昭和一〇年七月、鹿児島市にてお生まれになり、現在七十六歳になられている。九州大学医学部を昭和三十六年に卒業され、すぐに同大学病院神経精 神医学教室の精神病理研究室に入られている。当時の教室は桜井図南男教授が主宰されていたが、その頃の精神病理研究室には同世代の仲間として、錚々たる 面々が連なっていた。同期の神田橋條治氏、その下は山上敏子氏、牛島定信氏、西田博文氏などである。少し先輩に、前田重治氏、西園昌久氏。さらには、池田 数好氏が児童精神医学の診療と指導をされていた。驚くべきことに彼らすべてが、わが国の臨床精神医学分野で各々独自の主導的役割を果たしている。今考える と、人材の宝庫であったことがわかる。村田先生はそんな恵まれた環境で精神科医としての訓練を受けられたのである。
村田先生の学識経験の広さと深さは、フランス留学によってフランス流の精神医学をも身につけられたことも大きく関係している。なかでも特に神経心理学や精 神分析学などを積極的に学ばれた。村田先生は己の学識をひけらかすことなく、いつも素朴な印象を受けるのだが、その中にもフランスの香りや気高さを垣間み ることができるのは、そのためである。文字通り「能ある鷹は爪隠す」を地で行かれている先生なのである。
村田先生は今では子どものこころの臨床の先達者として有名であるが、実は先生の臨床に関する関心は広く深い。子どものうつ病、神経症、さまざまな発達障 碍、さらには自閉症など、子ども臨床については言うに及ばず、その前には精神分裂病(当時の呼称)の予後研究でわが国を代表する学術研究論文をまとめられ ていることはこの領域でよく知られている。その経験がその後の自閉症の追跡調査研究として結実することになる。
ついで特記すべきは先生の臨床における着眼点とその先見性である。それが如実に示された研究のひとつが本対談でも登場する子どものうつ病研究である。先生 をはじめとした研究グループが当時、学会発表した時には子どものうつ病については否定的見解を示す者が大半を占め、学会場ですぐに手を挙げて発言した当時 の児童精神医学会理事長は「子どもにはうつ病はない」と断言し、発表者(その時は私であったが)らの先見性を理解できなかったのである。それが二〇年後の 今では子どもにうつ病がみられることを誰しも疑わない。村田先生の先見性の高さを物語るひとつのエピソードである。
福岡大学、九州大学、西南学院大学と大学教員生活を過ごされ、定年後はご自宅の敷地内に建設したクリニックにおいて、日々子どもたちに相対し、真摯に向き合っておられるのである。

以上、お二人の先生のご略歴を紹介したが、先生方の現在の臨床がどのようにして生まれ、育まれていったのか、そんなところを遺憾なく語っていただく 中で、子ども臨床の面白さ、難しさ、魅力などが聞き出せたらとの期待を込めて、この対談を企画した。早速、その対談の様子をご覧いただくことにしよう。


対談を終えて

小倉 清
(一)
私はかねてから村田先生をずっと尊敬していた。村田先生の正直さ、率直さ、真剣さ、人間に対する深い理解と愛情、そしてあくなき科学的探究心と真理を追及 しようする心意気――さらには人間としての暖かさなど、比類ない臨床家としての生き方をすっかり備えもった方として敬服してきた。
昨年、村田先生が大病をなさったとうかがい、先生がお元気なうちになんとしてでもお目にかかり、長年にわたるお礼をさせていただき、ご挨拶に上がらねばと 思っていた。しかしどんなご様子なのか分からないし、ご迷惑をおかけしてはいけないなどと、気をもんでいたのであった。それで思い切って、こちらから勝手 に私の都合のつく日をきめてしまい、福岡にでかけることにしたのであった。
このことを小林先生に告げたのだが、すると小林先生は何やら計画を立てはじめたのであった。それが今回の対談となったというわけである。私はただのお見舞 いを考えていたので、長時間にわたる対談など考えもしなかった。小林先生のお話では、村田先生のご回復は予想外によろしくて、先生ご自身が対談に乗り気で いらっしゃるというので、私もつい嬉しくなって、じゃあぜひとも、ということで決まったのであった。
対談の場所は博多駅の近くのホテルの一室で、夕方から三時間という。その内容が気になるよりも、私は先生のお具合が心配であった。先生は少しおやせになら れたようにお見受けしたものの、昔からのお元気そうなご様子で大いに安心した。というよりも私はとても嬉しく感じた。現在はお酒もほとんど飲まれず、食事 も少しずつごく控えめにしか召し上がっておられないとのことで、一時かなり減った体重も少しずつ回復しつつあるとのことであった。ご病気やら治療のことな ど、本当はお聞きしたかったが、私は自分を戒めた。このように記すと、私はずっと先生のご様子を気にして控えめにして対談を進めたかのように聞こえるかも しれないが、本文を読まれたらお分かりの通り、対談が始まってまもなく、すっかり熱が入ってしまって、先生の健康状態への心遣いなど、すっとんでしまっ た。そういう配慮のなさは私の生来のものとしても、先生の仕事というものに対する打ち込み方、熱意というものが、昔のまんま、ここに披露されていて誠に感 動的なのである。実を申せば、この対談のあと、名の通ったある寿司屋で食事をしたのだが、先生はノンアルコールの飲みものをとられ、食事も半分程しか、そ れもごくゆっくりと召し上がられたのだった。あとの半分というのは私がいただいてしまったのだから、始末におえない。やはり先生にとっては、この長時間の 対談は相当なご負担であったのかと、あとになってから思った次第である。先生に申し訳なく思うのと同時に感謝の気持ちでいっぱいである。
(二)
対談の内容については小林先生があらかじめ考えておられた線に沿ったものになったようで、それはそれで結構なことであるが、それでも多少のことを敷衍して 述べても不都合なことはないだろうと思う。それはいくつかのことがありうるなかで、臨床的な診断をすることをめぐって一言つけ加えてみたい。
そもそも精神科は一般医学の中でも、もっとも遅れてその仲間入りをしたものの一つであった。ICDには初め精神医学の項目は入っていなかったのである。医 学の一部として認知されていなかったのである(結局ICDの仲間入りを果たしたのは第二次世界大戦が終わったあとであったように記憶する)。それにはそれ なりの理由があった。元来、精神医学は自然科学の仲間入りができにくい性質をもっていたことになる。精神医学は時代・民族・政治・文化・宗教・経済を超え たところにその存在を確立しているとはいえないのである。といっても、これは万人にとっての共通認識となっているのかどうか、むしろあやしいのかもしれな い。とはいえ、一般認識となっていないからといっても、それ以上の論をすすめてはならぬということでもないのではないか。
…(後略)…

村田 豊久
(一)
私は体調を崩して引きこもりの生活をしてきたが、ある日小林先生から電話がかかり、小倉清先生と九州に行くことになったのでその折小倉先生と私との対談を企画しているがどうかという話が持ち出された。
小倉清先生は私が四〇年来、畏怖の念をいだき敬愛している方で対談なんて勿体ないと思ったが、小倉先生も私に会ってみたいと話されていると聞き、僭越なが ら対談をお受けすることにした。私に小倉先生と話し合いができたらいろいろと勇気をえられるであろうし、立ち直りのきっかけとなれたらという虫のいい下心 もあった。この対談は、本書をお読み下さった方にはおわかりのように、私は小倉先生の正面に座ってはいたが、ただ先生のお話を食い入るように聞きこんでい ただけあった。小倉先生は誠実にそして正直に自己を語られた。先生の子どもの臨床への情熱、また人間愛がこれほどまでに赤裸々に表現されたことはないので はないかと思った。感受性がだいぶ鈍ってきたのではと気にしていた私にとって、人の話を聞いて感動したのは久しぶりのことであった。と同時に、小倉先生と 私では歴然とした格のちがいがあり、これはいまさらどうもがいてもどうにもならない格差であることもやはり思い知らされた。それは対談中も述べた四十二年 前の神戸での日本精神分析学会の「ハンス症例」のシンポジウムで私が小倉先生にいだいた感慨と同じものであった。四十二年前より私もいくらかは力をつけた かと思っていたが、小倉先生の懐はさらに奥深いものになっていた。
遠見書房から対談を終えての追記を書くようにとの依頼があった。私がどうしても書き残したいと思ったのは、どうしたら小倉先生のような気持ちで臨床がやれ るようになるのか、少しでも小倉先生の世界に近づくにはどうしたらよいかということである。本対談での小倉先生の語られることを読まれた方は、小倉先生が 自分のこころのそだちについての幼少期から実に繊細に記憶しておられること、そして自分の過去の姿をよみがえらせながら、目の前の子ども、その家族につい てそれぞれの心理状態を適格に理解していかれることに驚かれたであろう。その能力を生まれ持った天賦のものとしてしまえばそれは他人事で終わってしまう。 誰だって生まれつきの資質をもっている。そして小倉先生だって、これまで必死でよい臨床家になろうと努力してこられたし、今なお七十八歳になっても毎日自 己研鑚を重ねておられる。私たちが一足跳びで小倉先生の域に達するのは無理であろうが、少しずつ小倉先生の世界に近づくことはできるし、またこころの臨床 に携わるものにとってその方向への道をたどることは宿命のような気がしている。そのような視点から、私が今思いつくことを記してみたい。
(二)
先ずは自分の目の前にいる子ども(患者さん)の話をじっと聞くことであろう。ここまでは小倉先生も私も、また他の方々も変わりない。小倉先生は子どもと対 面すると、自分のその年代のことが思い浮かび、その頃思っていたこと、感じていたことに想いを馳せ、その気持ちで子どものこころと触れ合う。そして子ども の内面のこころ、それを作り上げている家族のこと、子どもがおかれている環境も次第に理解できてくるのではと思われる。そのような感覚的認識は私にはでき ない。すると時間をかけてゆっくりと、愚直と思われるほど不器用に、ともかく今はこの子を支えるだけでよいと考えて向かい合う。それで治ってしまうことも あるが、もっと子どものこころがわかり、いわゆる共感的理解が必要と思われてくることが少なくない。小倉先生、助けて下さいと頼むわけにもいかない。私は 私の力でこの子を理解し、ともに歩いていかねばならないと言い聞かせていろいろと試行錯誤する。あせることもある。どうしようかと泣きたくなることだって ある。そういう時、藁をもつかむ気持ちでたよるのが、論文であったり、DSMであったり、評価尺度や心理テストだったりする。そのことを次にいくらか記し てみる。
…(後略)…

小林隆児
(一)
座談会を終えた直後、私はほっとすると同時に、とても心地よい思いに酔いしれていた。お二人とも互いに相手を尊敬しておられることが、今回の座談会の雰囲 気に強く感じられたからであった。座談会が始まるとすぐに、互いに真摯に自分を率直に語られておられるのだ。私は最初聞き手としての責任から少々硬くなっ ていたが、いつの間にかお二人の人柄にすっかり甘えてしまい、平気で対等な口を利いている。その場に身を置くことの心地良さを満喫していたのではないかと 思えるのだ。小倉先生の患者のことば「なんだ、先生は僕と同じ年齢じゃないか」、村田先生の患者のことば「おい、ムラチン」などは、そのことを如実に物 語っている。それほどまでに相手との同一化がいつの間にか起きている。そこには〈治療者‐患者〉関係などとは表現できないほどの親密な関係が生まれてしま う。私もこの場で同じような体験をしていたということである。
お二人は相手の話にきちんと耳を傾けられ、その場で思い感じられたことを実に率直に語られている。だからであろう。互いに相手の話に触発され、賦活され、 お二人の対談には、思いもよらぬようなスリリングな展開が生まれている。過去の記憶がありありと浮かぶ場面が幾度となく繰り返されているのだ。聞き手とし てこれほど楽しいものはない。
村田先生については、長い間師事してきたので、多くの話はこれまでにも幾度となく聞いてきたはずなのだが、今回の対談ではとても新鮮に響き、かつこれまで一度も聞いたことのない話も突然の如く、語られている。
(二)
対談の中によく示されていると思うが、お二人に共通することを多々発見するのだ。子どものこころの臨床が、好きで好きでたまらないのだ。楽しみながら、と いってもそこには子どもたちと喜怒哀楽を共にしながら、全身全霊でこの仕事に取り組んでおられるのだ。自分の人生(の苦しみ、悲しみ、情けなさなど)を患 者とともに幾度となく反芻することによって、再確認しているのだという。お二人の幼少期の体験、その中でもとりわけ戦争にまつわる体験、そして思春期体験 などが次々に想起されていく。聞いているだけでその生々しさが伝わってくる。
さらにお二人には、精神科医になられてから一貫した姿勢を貫かれている凄みが共通してみられるのだ。
村田先生については、三十年前に出版され、今では絶版となっている『自閉症』(医歯薬出版)は、今や名著としての評価が高い。自閉症研究は七〇年近くを経 過しつつあるが、その間、原因をめぐる変節ぶりは驚きである。その流れに乗じて、自説を変えても恥じない研究者も少ない中で、この書で語られている先見性 は改めて驚きを持って評価されているのだ。諸外国の知見をいつもありがたく頂戴して紹介することに汲々としている研究者が多いわが国では大変稀有な存在と 言ってよい。この対談で語られている終戦直後の惨めな体験を聞いていて、私は追体験の難しさを感じつつも、なぜ村田先生がこの時期、つまりは学童期後半か ら前思春期の子どもたちに深く関わってこられたのか、その理由の一端を垣間見た思いがよぎったのである。村田先生の比類なきやさしさの背景には、想像もつ かないような悲惨な体験が隠されているのだとの思いを今改めて強くしたのである。長年の指導を受けてきた者として、文字通り不肖の弟子であったと再認識さ せられたのだ。
(三)
小倉先生の乳幼児期からの自己体験の話を聞くと、その一貫した姿勢は乳児期から変わっていないのではないかとさえ思えるほどなのだ。自らの子ども時代の体 験をもとに、大人であれ、若者であれ、子どもであれ、飽くなき好奇心で彼らの子ども時代に思いを寄せて聞き入ってきたという。そして、その中で確信したこ とは、彼らの苦しみすべての根っこにはつらい乳幼児期体験があり、そのことが面接の中で語られて、初めて彼らの苦しみは多少なりとも和らいでいくという。 さらに私にとって驚異的であったのは、乳児について自然体でその母親に尋ね続けてきたという飽くなき好奇心である。なぜそれほどまでに乳児期のことを知り たくなるのか。自己理解、他者理解への探求心が、そうさせずにはいられなかったのではと思えるのだ。
小倉先生はなぜこれほどまでに自らの幼少期から今日までの体験を記憶し、忘れられないのか。自らぶち当たった自己矛盾に対する疑問がそれほど深かったので あろうか。「狂った」とまで言わしめるほどの大変な体験をされ、そのことから逃げずに徹底的に突き詰めて考え抜かれたのだ。ある意味で人間としての限界に まで突き詰めていかれたのだ。人間の心の深奥なところに行き着くことで初めて体感できる世界なのであろう。恐らくはその後のどのような体験も、この時点の 体験に必ず戻りながら、その都度比較検証されているのであろう。
…(略)…


著者略歴

小倉 清(おぐら・きよし)
クリニックおぐら(院長)、精神科医
1932年生まれ。1958年慶應義塾大学医学部卒業。
主な著書:『小倉清著作集1~3、別巻1』(岩崎学術出版社、2006~2008)、『子どものこころ』(慶應義塾大学出版会、1996)他

村田豊久(むらた・とよひさ)
村田子ども心理教育相談所(所長)、精神科医
1935年生まれ。1961年九州大学医学部卒業。
主な著書:『子どものこころの不思議』(慶應義塾大学出版会、2009)、『子ども臨床へのまなざし』(日本評論社、2009)他

小林隆児(こばやし・りゅうじ)
大正大学人間学部臨床心理学科(教授)、精神科医
1949年生まれ。1975年九州大学医学部卒業。
主な著書:『関係からみた発達障碍』(金剛出版、2010)、『自閉症のこころをみつめる』(岩崎学術出版社、2010)、他

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