荒野の精神医学――福島原発事故と日本的ナルシシズム

荒野の精神医学
――福島原発事故と日本的ナルシシズム

(ほりメンタルクリニック院長)堀 有伸 著

**遠見こころライブラリー**
定価2,600円(+税) 四六判 288頁 並製
ISBN978-4-86616-083-2 C3011
2019年3月発行

本書『荒野の精神医学』は,東京の大学病院に勤務する精神科医であった著者が,被災地の復興に加わるべく福島県南相馬市に移住し,日々の活動を通して深めてきた日本文化論・日本人論である。
荒野とは,中央から疎外された場所である。精神科病院がそうであり,原発事故のために復興が遅れている地域がそうである。そこでは,「集団との一体感を重視し,弱い者をスケープゴートにして凝集性を高める」「揺るがしてはならない規則や論理がある場面でも,情と力に流される」「個人の判断や思考を回避しそれを他者に委ねたがる」といった,日本人の無意識の精神性「日本的ナルシシズム」が露出しやすい。
著者は自らその渦中に身を置き,日本的ナルシシズムを乗り越えることが真の復興へつながると提言する。荒野に希望を生む精神科医の挑戦。


目 次
第1部 埼玉・川越
重症患者を病棟コミュニティで抱えること
第2部 福島・南相馬
南相馬市の優しい人々のこと/小高郷・標葉郷の武者は美しかった―相馬野馬追のこと/浜通りのこころをめぐる空想/開沼博『「フクシマ」論―原子力ムラはなぜ生まれたのか』についての精神分析的読解/私は福島の人々に多くを求め過ぎているのかもしれない、と不安に思うこと/支援者に求められる禁欲についての一考察/躁的防衛の概念とその両義性について、およびその被災地における心理状況への理解への適応について/南相馬市の高齢化問題について/鼻血と日本的ナルシシズム/原子力発電所事故と怒り/2014年12月に浪江までの相双地区と仙台が常磐自動車道で直結した時に被災地で感じたこと/原発事故被災地支援の倫理について/国土の喪失の否認について/コロナイゼーションの進展としての東京電力福島第一原子力発電所事故対応/福島の子どものメンタルヘルスに思う、日本における自主的な思考の重要性/福島から横浜に自主避難した中学1年生男子がいじめられたことの報道について思う/原発事故から6年、都合の悪いことを黙殺し続ける私たちの「病理」/今のうちにいっておきたい、東京五輪への「大きな違和感」/福島・南相馬の精神科医が見た「大震災6年半後の風景」/原発事故から7年、不都合な現実を認めない人々の「根深い病理」/あれだけの事故が起きてもなぜ日本は「原発輸出」を続けるのか
第3部 日 本
日本の「変わらなさ」へのささやかな抵抗/羨望とその破壊性についての警告/
現代日本における意識の分裂について(1)~(6)/スケープゴート現象と日本的ナルシシズム/ナルシシスティック・パーソナリティーはこころのなかにたくさんの分裂を抱えている/自虐的世話役と攻撃性の統合の困難/日本的ナルシシズムの深層/かつて私を迫害した人への隠された怒りについて/日本的ナルシシズムとうつ病の難治化・自殺の問題について/「教育勅語」の呪縛のなかで日本社会が先送りしてきた課題/日本人の「心情」はすでに大震災前に戻ってしまったのかもしれない/日本社会で増殖する「万能感に支配された人々」への大きな違和感
appendix 福 島
私の体験としての東京電力福島第一原子力発電所事故

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著者紹介
堀 有伸(ほり ありのぶ)
ほりメンタルクリニック院長,精神科医。
1972年東京都台東区生まれ。私立麻布高等学校,東京大学医学部医学科を卒業。14歳の時にプロテスタントの教会で洗礼を受けたが,20代前半で無宗教の人間として生きていくことを選択した。東京大学医学部附属病院分院神経科で研修医となり,現象学や精神分析学を踏まえた精神病理学を学んだ。その後は東京都や埼玉県の精神科医療機関に勤務。2011年の東日本大震災・東京電力福島第一原子力発電所事故に衝撃を受け,2012年から福島県南相馬市で暮らす。2016年に同市でほりメンタルクリニックを開業。
著書に『日本的ナルシシズムの罪』(新潮新書)がある。


まえがき
『荒野の精神医学』、それがこの本のタイトルである。
この本に書かれているのは間違いなく精神医学における実践の記録なのであるが、その舞台は何重もの意味で疎外された「荒野」となっている。
この本に収録された原稿の出自は、きちんとした学会誌に掲載された論文でも、学会で発表されたものでもない。「第1部埼玉・川越」の原稿は、企画され出版直前まで進みながら結局は日の目をみることがなかった、日本の精神科病院のあり方への痛烈なアンチテーゼを含んだ、グループ・アナリシスについての本のために準備されたものだった。「第2部福島・南相馬」と「第3部日本」は、私がインターネット上に発表したブログ記事を集めたものである。第3部の後に『現代思想』という雑誌に収録された「私の体験としての東京電力福島第一原子力発電所事故」という小論を紹介した。しかしいずれも、正当な精神医学から承認を受けたものではない。
この本の執筆に当たって、一貫して用いられた手法は、グループ・アナリシスである。これは、集団についての精神分析的な介入を行う手法であり、その内容についてはそれぞれの実践の個別性が高いために、統計学的な検証を行いえないものである。グループ・アナリシスでは、個人のこころの有り様も、所属する集団のこころの有り様と不即不離の密接な関係にあると考える。集団がもつ「無意識」に、その集団に属する個人のこころも大きく影響されている。これは、実証主義の考えが浸透した現在の精神医学においては、扱う対象とされにくい。
さらに、この書に収められた実践がなされた場所は、「荒野」のように都市から疎外された場所だった。第1部の舞台が、古くからある精神科病院の、閉鎖病棟の、保護室である。第2部の舞台が、地震・津波・原発事故の影響に苦しむ被災地であった。そして、その「荒野:疎外された場所」から見える、それらの場所を含む日本全体が、主題として浮かび上がってくる。
私は精神科の閉鎖病棟の集団に無意識のコンプレックスを見出した。それは「個人」というものが析出されることを拒否し、明確な意思決定を行わず、常に集団の無名性のなかに留まろうとする傾向だった。「人権」の概念は、明確には述べられないものの嫌悪され、美化された全体とのあいまいな一体化に留まることが志向された。集団に何らかのフラストレーションが生じた場合には、理性的な問題解決よりもスケープゴートをつくった上での感情的な発散が優先された。これを扱ったのが「第1部埼玉・川越」である。
やがて、私はこれが日本社会全体に共通する傾向ではないかと考えるようになった。私はこの傾向に「日本的ナルシシズム」という名をつけた。そして東日本大震災が起きた時に、特に原子力発電所事故と関連した場面で、普段は無意識的な状態に留まっているその防衛的な構造が、露出していることに気がついた。
2012年から私は原発事故被災地に移住し、そこからグループ・アナリシスの手法を意識して、インターネットを通じて無意識的で防衛的な構造である「日本的ナルシシズム」を解釈するブログの発表を続けた。それらのブログから、主に年代順に選んで掲載したのが「第2部福島・南相馬」と「第3部日本」である。
したがって、この本は、何か完了した内容の記録なのではない。グループ・アナリシスという精神分析的な実践における解釈と、ほとんどが日本人であろう読者がその解釈を読むという実践における行為の一部なのである。
私の意図は、多くの日本人が無意識的にとらわれている「日本的ナルシシズム」の影響から、それが適切に解釈されることを通じて解放され、この変化と混乱の時代に社会全体として意識的で合理的な問題解決を積み重ねられるようになることである。
ここまで書けば、私が原発事故被災地に移住した理由も理解していただけると思う。精神分析的な解釈は、転移のなかで発せられなければ効果を発揮しない。東京の大学病院のなかからでは、その解釈は行えなかったのだ。原発事故にまつわるさまざまな力動が、転移されてくる場所に生きて語ることが必須だった。
もう一つ、精神分析からの疎外についても語っておきたい。このような精神分析を強く意識した実践を、正式なトレーニングコースに入っていない私が行っている事態も、規格外のことである。しかし、正当な精神分析家やその訓練生には、このように治療契約の外で、震災後に日本人全体の無意識に触れようとするような逸脱は、許されないだろうという判断が私にはあった。「荒野」に追放されている者が行うのだから、かろうじて許容される実践なのだ。
日本文化には「荒野」を主題にしたものが少ない。それと比べて、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などの一神教の文化では、それらの宗教が誕生した土地との関連から、「荒野」「砂漠」を意識したものが多い(たとえば、旧約聖書イザヤ書43章の19節は、「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける」となっているような具合である)。
それならば、日本文化の無意識を解釈する場所として選ぶのに、「荒野」はふさわしい場所だろう。

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