スピノザの精神分析──『エチカ』からみたボーダーラインの精神療法

スピノザの精神分析──『エチカ』からみたボーダーラインの精神療法

(精神科医・精神分析家・川谷医院院長)川谷大治
定価3,300円(+税),320頁,四六判並製
ISBN978-4-86616-195-2 C3011
2024年6月刊行

 

人間の在り方を模索した哲学者スピノザ。その書『エチカ』は,当時異端と目されもしたが,後世に長く読み継がれる一書となった。フロイトも言及したスピノザの思想には,精神分析そのものと言える部分があり,哲学者だけではなく,フロイト以降の多くの精神分析家や心理療法家を引きつけている。
本書は,精神分析家として,精神科医として多くのクライエントの心を見つめている川谷大治によるスピノザの哲学を真っ向から扱った一冊である。スピノザの精神分析とは何か。スピノザの思想が精神分析にもたらすものは何か。長年の治療経験と思索から,深く広い「エチカ」と精神分析の世界を解き明かす。


目 次

序  章

第1部 精神分析を読み直すためのスピノザの予備知識
第1章 スピノザの感情論
第2章 スピノザの認識論
第3章 スピノザとフロイト

第2部 『エチカ』を通して精神分析を再考する
第4章 フロイトからハイマンとリトルの転移・逆転移
第5章 スピノザの転移・逆転移

第3部 『エチカ』を通してウィニコットを読む
第6章 ウィニコットを読む

第4部 ボーダーライン論
第7章 ボーダーライン論1
第8章 ボーダーライン論2

 


著者略歴
川谷大治(かわたに・だいじ) 
医学博士,精神保健指定医,日本精神神経学会認定医,日本精神分析学会精神療法医,認定スーパーバイザー,日本精神分析協会精神分析家

1952年6月 長崎県五島列島福江島の遣唐使最終寄港地に出生
1980年3月 長崎大学医学部卒業
5月 長崎大学医学部付属病院精神神経科入局
1984年4月 福岡大学病院精神神経科入局
1997年5月 川谷医院開業
2015年1月 就労支援A型ドンマイ併設
2020年7月 放課後等デイサービスそら,カフェボンクラージュ併設
2021年4月 訪問看護ステーションてんご併設
2022年11月 コムニカチオ「中尾」,ヘルパーステーションてんご併設

受賞歴:日本精神分析学会奨励賞(1992年)
主な著書:『思春期と家庭内暴力』(金剛出版,単著),『自傷とパーソナリティ障害』(金剛出版,単著),『境界性パーソナリティ障害〈日本版治療ガイドライン〉』(金剛出版,分担執筆),『現代フロイト読本2』(みすず書房,分担執筆),『詳解 子どもと思春期の精神医学』(金剛出版,分担執筆),『思春期精神医学』(診断と治療社,分担執筆),『北山理論の発見──錯覚と脱錯覚を生きる』(創元社,分担執筆),『現代精神分析基礎講座(第2巻,第5巻)』(金剛出版,分担執筆)


はじめに

スピノザ『エチカ』との遭遇
二〇二〇年二月のある日、スピノザBaruch De Spinozaの入門書、國分功一郎著『NHK100分de名著スピノザ「エチカ」』を読むことにした。「こころ」に関する本を漁っていると、しばしば哲学者スピノザの名前を目にして、もはや無視できなくなったのと、先に國分著『中動態の世界──意志と責任の考古学』(医学書院、二〇一七年)を読んで面白かったので(中動態の骨幹とも言えるスピノザを扱った第8章は読まずに避けていた)、國分氏の入門書というのも大きかった。
私は一九九〇年頃からボーダーライン患者の精神科治療に「矛盾を抱える」工夫を取り入れてやってきた。しかし『エチカ』を読んで、もっと重要なことに気づいた。彼らの感情の激しさを精神療法の対象にしてこなかったのである。感情を理性でコントロールするとか我慢するのは至難の業である。ことにボーダーライン患者の感情は巨大である。些細な刺激をきっかけに激怒し、なかには自らの身体を傷つける攻撃性の強大さには圧倒される。恥ずかしいかな、私は安易に、薬物治療に頼ってきたのである。『エチカ』を読むたびに、当たり前と言われれば当たり前のことなのだが、受動感情に隷属している患者を救う手立てが満載していることに勇気づけられる。
ボーダーライン患者だけでなく私たちは絶望的な感情から逃れるためにスピノザのいう「世俗的な善」、つまり富・名誉・快楽の三つにすがる。しかし、それでは悲しみは一向に消えない。どうしたものだろう。精神分析は何もしなかったのではない。見捨てられ恐怖の直面化、「今・ここ」での介入、種々の限界設定、ホールディングとコンテイン、スプリッティングの操作などである。スピノザは言う。人間の幸福は、事物の真なる認識による全自然との合一にある。そのために、知性を改善、純化して真なる認識、さらには真なる観念に至るための方法論を探求しようと。その試みが『知性改善論』で、後に結晶化したのが『エチカ』である。
スピノザの『エチカ』は私の脳にヒットした。これまで哲学書を避けてきた人生に私はなんという失敗をしてきたのかという忸怩たる思いがした。と同時に、これで老後の生活の楽しみを見つけたと嬉しくもあった。『エチカ』を読むたびに、スピノザが今の世に生きていたら、精神分析をやっていただろうと夢想し、臨床で体験した心の問題をスピノザが鮮やかに解釈するたびにどんどんはまっていった。
二〇二〇年の福岡大学精神医学教室の同門会では「共感」は精神療法の妨げになり得るというスピノザの「憐れみ」を発表した。さらに、行動化優位のパーソナリティ障害の治療においてなぜ超自我(良心)は問題行動の抑制力にならないのか、と問うた。警察官が行為の前に捕まえることはしないように、聞こえるべき時に良心の声は届かない。それは何故か? 衝動的な行為は意識を介しないから、というスピノザの考えは腑に落ちた。人は思わず、そうしてしまうのである。そんな考え方をするスピノザをニーチェは「良心なき思想」と呼ぶ。同僚と共に発達障害の症例を論文にするのに『スピノザ〈触発の思考〉』(浅野、明石書店、二〇一九年)は大いに役立った。
その頃、『ウィニコットとの対話』(Kahr, 2016)の書評を依頼された。その中でウィニコットWinnicott, D. W.の『逆転移のなかの憎しみについて』(一九四九年)を論じた。詳細は第6章に譲るが、精神分析の世界では「無意識的憎しみ」と言い表すように感情は抑圧されると考える。それに対して抑圧されるのは観念であって感情は抑圧されないというのがスピノザである。スピノザは感情を伴う観念はあるが、観念を伴わない感情はないという(第3章)。
二〇二一年はスピノザの感情論と認識論を探究した(第1、2章)。長いあいだ解けなかった「人はなぜ褒められると嬉しいのか」という私の疑問をスピノザは「感情の模倣」の観点から鮮やかに解明する。「そうだったのか」と目から鱗が落ちた。この感情の模倣はダニエル・スターンStern, D. N.の情動調律と同じものである。そのことを私自身の乳幼児観察をもとに論じようと思う。感情の模倣論はパーソナリティ障害を理解するのに欠かせない自己論を含んでいるので、第1章でページを割いて論じた。
次に、第一種の認識(表象知、イマギナチオ)の観点からウィニコットの中間領域を読み直した(第6章)。スピノザは現実的には偽だが内的には真という第三の領域(共有信念)を想定し、我々が偽であるイマギナチオを信じるのは、「ただ疑わないだけか」あるいは「彼の表象を動揺させる原因(言いかえれば彼にそれを疑わせる原因)が少しも存在しないから彼はその偽なる観念に安んじているというだけのことである」という。イマギナチオを真と考える患者に我々は解釈を通してイマギナチオから解放しようとする。どのような条件が整うと、つまり転移・逆転移の様相、解釈が奏功するのだろうかを論じたのが第2部の第4、5章である。
精神分析家の解釈が彼らの偽の源泉と言われるイマギナチオを破壊し彼らに幸福をもたらす方法が『エチカ』には書かれている。さらに、スピノザの感情の発生論を加えてウィニコットの破壊論を読み直す作業を行い(第6章)、ウィニコット協会の主催する研究会で報告した。そのとき、第二種の認識「理性」による分析作業、つまり「スピノザの方法」は精神分析治療過程と同じであることに気づいた。フロイトとスピノザの共通性にもがぜん興味が出て、先行論文を読んだ。二人は多くの点で共通するが、最も大きな違いは死の欲動を認めるかどうかである。エントロピー増大を「死の欲動」とするフロイトに対して、スピノザは「物は一が他を滅ぼしうる限りにおいて相反する本性を有する。言いかえれば、そうした物は同じ主体の中に在ることができない」(第三部定理五)と否定する。死は常に外部からやってくるとスピノザは考える。このスピノザの考えに現代の分子生物学の知恵を導入すると、「生命の本質」が見えてくる。今は亡き西園昌久先生の主催する福岡精神分析研究会では「本当の生命の本質というものは、自然法則なのであって、いいかえますと、実体がないわけですね」と語る野澤重雄を紹介して、彼のハイポニカ論に刺激されてフロイトFreud, S.の死の欲動論を否定する発表を行った(第3章)。いったい野澤重雄はスピノザの神を知っていたのだろうか。
二〇二二年にはスピノザの感情論と認識論から転移・逆転移の概念を読み直す作業に取り掛かった(第4、5章)。有名なフロイトの「分析家の無意識が患者の無意識を理解する」という文章を中学生にも分かるように説明できるようにスピノザを媒介に読み解いた。スピノザを介せずに説明しようとするとこれが意外と難しい。その後に、ポーラ・ハイマンHeimann, P.とマーガレット・リトルLittle, M.の転移・逆転移にもチャレンジして、臨床こころの発達研究会で発表した。
当時、長時間セッションの精神分析的精神療法を行っていた私は精神分析臨床における二重の転移・逆転移現象に気づいたので第9章で症例報告を行った。それは、私だけに起きている現象ではなく今日のフィールド理論につながるような発見だった。精神分析的に行われる精神療法では治療者は患者との間で起きる転移・逆転移を理性によって理解していく。患者と治療者の二人が相互に作用しあうモノを言葉として浮かび上がらせる、その瞬間に、切り捨てられるものが出てくることに気づいた。切り捨てられたものは意識されずに、浮かび上がった患者と治療者にある種の力を与えていくのである。この現象を理解するには、西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一がヒントになると福岡伸一の「動的平衡」論に関する一連の書物から知った。それはポスト・ビオン派が論究している「直観」の問題へと関心が広がった(第2章)。
『エチカ』を3年間は読み続けようと決心して、福岡精神分析研究会、ウィニコット・フォーラム、臨床こころの発達研究会などで経時的に発表してきた(章末参照)。本書は、この3年間で学んだスピノザの目を通して私の精神科臨床および精神分析を見直したものである。

なぜ本書のタイトルは『スピノザの精神分析』なのか
スピノザが現代に生きていたらきっと精神分析にたずさわっていたと思う。『スピノザの生涯と精神』の中にはレンブラント死去後にうつ病に苦しんだファン・ローンの手記が掲載されている。彼の前に精神分析者としてのスピノザが登場するシーンがある。ファン・ローンとのやり取りには転移・逆転移の概念は見られないが、スピノザはすこぶる精神分析的である。ネットではファン・ローンの手記は資料としては価値がなく後代の文学作品だと断じているけれども、一概にそうだとも言えない。むしろ本物ではないかとさえ思う。その個所を簡単に説明しよう。
ファン・ローンはうつ病の原因を求めて悩みスピノザと話し合った。英雄だった祖父を持つファン・ローンの父は、オランダがスペインの無敵艦隊に立ち向かった時、祖父に連れられて海戦に出た。その時、敵の歩哨の発砲で父は気絶してしまった。それから父は人が変わり、あらゆるものに憎悪と呪詛を投げかける性格破綻者となった。父の憎悪はファン・ローンと兄の子どもたちに向けられた。その時のスピノザの解釈はフロイトのメランコリー発症の原因となる「対象の自己愛的同一化」に通ずるのである。その解釈を抜き書きしよう。

「……この二つの性格がほかならぬあなたのお父さんの心の中で互いにぶつかり合って争ったのです。二つのうち強い方が勝ちました。お父さんは手柄を立てることをひどく望んでおいででした。しかしお父さんの内部にあった何かが、その衝動を打ち破ったのです。しかも全く卑劣に打ち破ったのです。その結果お父さんはそれほど完全に自身を憎むようになられた……それというのも、お父さんはそれほど完全に自身を憎まれたからです」
「そうして父は自分の子供たちに復讐した」
「子供たちがお父さんの一部だったからです──子供たちを責めさいなまれながら、お父さんは本当はご自身を責めさいなまれたのですから」(『スピノザの生涯と精神』)

これだけの内容を書ける力量の持ち主はスピノザしか思い当たらない。

※以下の日程で発表してきた。
1.福岡大学精神医学教室同門会 二〇二〇年十月三日『スピノザに学ぶ』
2.福岡精神分析研究会 二〇二〇年十一月二十一日『スピノザと精神分析①』
3.川谷大治:〈書評〉ブレッド・カー著、妙木浩之・津野千文訳『ウィニコットとの対話』(人文書院、二〇一九年)、精神分析研究 64(4)、五五三‐五五五頁、二〇二〇年
4.ウィニコット没後50年記念行事『ウィニコット再入門』 二〇二一年四月四日『ウィニコットの臨床』
5.福岡精神分析研究会 二〇二二年一月二十二日『スピノザと精神分析②』
6.渡邉恵里・川谷大治:罪悪感に着目した反抗性挑発男児例に対する治療の工夫、児童青年期精神医学とその近接領域 63(1)、四三‐五五頁、二〇二二年
7.JFPSP自己心理学協会 二〇二二年四月一日『ウィニコットの精神分析』 
8.第4回臨床こころの発達研究会 二〇二二年四月二十四日『スピノザの自己愛』
9.福岡いのちの電話第2回全体研修分科会B 二〇二一年八月七日『心の病の対応』
10.第6回臨床こころの発達研究会 二〇二三年三月二十六日『転移・逆転移概念の歴史的変遷とスピノザの観点から』
補:院内勉強会『感情の派生論・認識論』、『スピノザの人間学①』、『スピノザの人間学②」


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