描画連想法――ラカン派精神分析に基づく描画療法の理論と実践
描画連想法
――ラカン派精神分析に基づく描画療法の理論と実践
(中部大学)牧瀬英幹著
定価2,800円(+税) A5判 並製 200頁
C3011 ISBN978-4-86616-206-5
2024年10月刊行
描画を通して子どもから大人まで数多くの人たちと向き合い続けてきた著者が,自ら考案した新しい描画療法の実践「描画連想法」。この新しい描画療法の特徴は,クライエントの描画や語りの中に現れる無意識の拍動に合わせて,紙の交換という形で解釈としての区切りを入れる点にあります。本書は,この描画療法について,実際のクライエントの描画を含め,多くの事例を交えながら理論から実践まで,余すことなく語り尽くした著者渾身の一冊です。あわせて,ウィニコットのスクィグル技法や,中井久夫の風景構成法についての論考も収録。多様な現場で,様々な人たちと関わる臨床家の方々にとって,必携の書となりました。
目 次
序 章 人間と言語との関係から描画を捉え,介入することの意義
第1章 「描画連想法」とは何か─紙を交換する
第2章 描画空間のトポロジー─転移の問題を巡って
第3章 「不可能なもの」との関係を浮かび上がらせる
第4章 「文字的なもの」の出現に注目する
第5章 夢との繋がりを探る
第6章 精神病に対するアプローチ─紙を導入する
第7章 主体と社会をつなぐ描画
終 章 「描画連想法」のさらなる発展に向けて
付論1 スクィグル・スクリブル・描画連想法
付論2 風最構成法─「風景になる」ということ
あとがき
「描画連想法」の始まりは,ある子どもとの何気ないお絵描き遊びであった。いつものように話をしていたところ,子どもが「絵を描きたい」と要望したため,鉛筆と1枚の紙を渡した。すると,子どもは嬉しそうに話をしながら絵を描き始めた。子どもはまるで夢の中を冒険するかのように話し,筆者もまた共に子どもの夢の中を旅した。言葉は溢れんばかりで,言葉がそのまま絵になるのではなく,絵は子どもの語りに節をつけるようなものとしてあった。旅を終えて2人で現実世界に戻ってきた時,その旅路は1枚の紙を越え,机全体にまで及んでいたことに気づいた。2人で机の上に描かれた絵を消しゴムで消す際,「消すのがもったいないね」と話しつつも,子どもが「また描けばいいよ」と言い,楽しそうにしている様子を見て,何かが変わったことを直感した。今思えば,子どもはこの時,筆者との描画を用いた夢旅行を通して,「自分はどこから生まれて来たのか」=「〈他者〉に何を欲望されて生まれて来たのか」という問いをもとに自らの欲望を立ち上げていたのである。
序論で確認したように,フロイトは「フォルト・ダー(いないいないばぁ)の遊び」に,人間の大切な文化的達成(言語的主体=欲望する主体になること)と欲動の断念を巡る苦悩(言語的主体になることで失うものが生じること)の端緒を見出した。ウィニコットは「心理療法は,患者の遊ぶことの領域と,セラピストの遊ぶことの領域という,ふたつの遊ぶことの領域の重なり合いのなかで起こる。心理療法は,一緒に遊んでいるふたりの人々にかかわるものである。このことから必然的に,遊ぶことが不可能なところでセラピストが行う作業は,患者を遊べない状態から遊べる状態へともっていくことに向けられる」と指摘しており,またラカンは,著書やセミネールの中で「言葉遊び」を介して大切なことを伝えようとしている。これらの点から我々は,遊ぶことが,人間が言語との関係を構築・再構成し,その「生」を生き抜いていく上でいかに欠かせないものとしてあるかを学ぶことができる。上記の始まりのエピソードは,「描画連想法」がそうした本質と密接に関わるものであることを示していると言えるだろう。
しかし,それだけではない。「描画連想法」の誕生は,もう一つの欠かせない契機を必要とした。それは,筆者にとっての大切な人の死である。興味深いことに,この点において,筆者の経験とフロイトのそれが重なってくることになる。筆者が「描画連想法」を構想している間に大切な人の死を経験したのと同様に,フロイトもまた,「フォルト・ダーの遊び」について初めて言及した1920年に愛娘のゾフィーを失っているのである(ゾフィーは,「フォルト・ダーの遊び」を実際に行っていたエルンストの母に当たる)。このことについて,フロイトは「快原理の彼岸」の中で,「子どもが5歳9カ月のとき,母が死んだ。いまや,母は本当に『いなく』(オーオーオーオ)なったのだが,その子が母を悼む喪の悲しみを示すことはなかった」 と記載している。
では,なぜフロイトは「いまや,母は本当に『いなく』(オーオーオーオ)なったのだが,その子が母を悼む喪の悲しみを示すことはなかった」と記したのであろうか。エルンストは,母が亡くなることをどこかで予期しつつ,「フォルト・ダーの遊び」を行っていたのであろうか。もちろん,そのようなことはあり得ないとしても,人間は言語的存在として誕生する際に,同時に死の問題を引き受ける姿勢そのものをも確立するのかもしれない。そのように考えてみると,人間にとっての遊びとは,「我々はどこから来たのか,我々は何者か,我々はどこへ行くのか」と問い,その問いに答えることの不可能性と向き合っていく可能性を生み出すことであると言えるのだろう。
「描画連想法」の始まりにおいて,「誕生」と「死」の問題が筆者を取り巻く形で色濃く存在していたことは決して偶然ではないのであり,「描画連想法」はこれからも絶えず,人々の「誕生」と「死」の問題と結びついては,「不可能性」のもとに問いを構築する場を生み出すものとして機能していくことになると考えられる。この意味において,筆者は,「描画連想法」が「誕生」や「死」に纏わる問題で苦悩している人々にとって何らかの形で役立つものとなることを切に願ってやまない。
本書で提示した臨床素材,そして数々のアイデアは,Clの方々との関わりから生まれてきたものである。そのような貴重なものを我々にもたらしてくれたClの方々にまず深く御礼申し上げたい。
「描画連想法」の誕生時より,終始変わらぬあたたかいご指導を賜るとともに,精神分析,そして臨床描画研究への道を示して下さった京都大学名誉教授の新宮一成先生に心より感謝申し上げたい。
大阪樟蔭女子大学名誉教授の高橋依子先生には,日本描画テスト・描画療法学会における活動を通して描画を用いた臨床の魅力と奥深さについてご教示いただくとともに,本書を出版するきっかけを与えていただいた。厚く御礼申し上げたい。
そして,精神分析,精神医学,心理学の先輩同僚諸氏,特に,日本描画テスト・描画療法学会,日本ラカン協会の先生方との有意義な討論の機会に恵まれたことは,描画連想法を深めていく上でかけがえのないものであった。あらためて深く感謝申し上げたい。
最後に,「描画連想法」に興味を持って下さり,本書の出版を快くお認めいただいた遠見書房の山内俊介社長,また,編集・校正作業を通して,本書をより良い形にお纏め下さった塩澤明子氏に,深く感謝の意を表したい。
2024年8月 牧瀬英幹
著者略歴
牧瀬英幹(まきせ・ひでもと)
中部大学生命健康科学部 准教授
2010年,京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。その後,渡英し,ロンドンのラカン派精神分析組織Centre for Freudian Analysis and Researchにて,精神分析の研修を受ける。2016年4月より現職。専門は,精神分析,精神病理学,描画療法。
主な著書:『精神分析と描画─「誕生」と「死」をめぐる無意識の構造をとらえる』(単著,誠信書房,2015),『発達障害の時代とラカン派精神分析─〈開かれ〉としての自閉をめぐって』(編著,晃洋書房,2017),『描画療法入門』(編著,誠信書房,2018),『リハビリテーションのための臨床心理学』(単著,南江堂,2021)
訳書:『HANDS─手の精神史』(共訳,左右社,2020)
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