ナラティヴ・セラピー──社会構成主義の実践

ナラティヴ・セラピー
──社会構成主義の実践

シーラ・マクナミー,ケネス・J・ガーゲン編
野口裕二,野村直樹訳

定価2,400円(+税)、180頁、四六判、並製
C3011 ISBN978-4-904536-80-3

ナラティヴ・アプローチの原点
待望の復刊!

ナラティヴ・セラピーの登場以降,心理療法のあり方は,根底から変わった。セラピストとクライエントの関係性に注意が向けられるようになり,クライエント とコラボレイトしてゴールを目指すという姿勢も当たり前のものになった。「客観的現実」よりも「人々の間で構成される現実」がリアリティを持つようになっ た。
その出発点となったのがこの本である。
ホワイト,グーリシャン,アンダーソン,アンデルセン……新しい心理療法の時代をつくり,根づかせた臨床家たちの試みは,家族療法の分野で始まった。90 年代に入ると,この変化の全体を見渡せる視点やその思想的背景が見えるようになってきた。それが社会構成主義(ソーシャル・コンストラクショニズム)であ り,ナラティヴという視点であった。
多くの待望の声がありながら版が止まっていたものを,今回一部訳文の再検討をし,復刊。本書は,刊行から20年近くをすぎても今なお色あせない,一番新しい心理療法の原典である。

本書の詳しい内容


おもな目次

序章 シーラ・マクナミー、ケネス・J・ガーゲン
押し寄せる波
構成主義という意識の芽生え

第一章 家族療法のための再帰的視点 リン・ホフマン
一 現代心理学における五つの聖なるもの
二 メンタルヘルスにおける植民地主義
三 居心地の悪さが増すなかで
四 「再帰的reflexive」という言葉
五 専門家を消し去ること
六 セラピストの物語
七 連想の形式
八 参加の倫理

第二章 クライエントこそ専門家である――セラピーにおける無知のアプローチ
ハーレーン・アンダーソン、ハロルド・グーリシャン
一 〈社会構造〉から〈意味生成〉へ
二 治療的会話――対話モード
三 会話的質問――理解の途上にとどまり続ける
四 ローカルな意味とローカルな対話
五 治療的質問とそうでないもの
要   約

第三章 「リフレクティング手法」をふりかえって トム・アンデルセン
一 今日の私の考え
二 初期の頃――内科医として
三 別の道を探る
四 大きな転換――リフレクティング
五 面接の方法と手順
六 言葉と「自己」形成
おわりに

第四章 治療を拡げる新しい可能性 ギアンフランコ・チキン
一 エネルギーから情報ヘ
二 「備わった特質」から「現実の共同制作」という見方ヘ
三 焦点を変える――「家族」から「治療者自身」へ
四 「どっちつかずの共同制作者」

第五章 書きかえ療法――人生というストーリーの再著述
デービッド・エプストン、マイケル・ホワイト
 一 「ストーリー」あるいは「物語」
二 物語を具体化してゆく演技
三 物語の不確定要素――書きかえの可能性
四 人生の「改訂版」を作る――ローズの場合
五 「書きかえ療法」――前提と実践

第六章 ナラティヴ・モデルを越えて ケネス・J・ガーゲン、ジョン・ケイ
一 モダニストの治療物語
二 ポストモダンにおける治療的現実
三 物語と実践的有用性
四 物語を越えて
五 治療的な〈動き〉


まえがき

人は何か解決すべき問題に直面したとき、それをただありのままに見ているわけではない。たとえば、ある病気が治療を要するものかどうかは、目の前の状態よ りもその病気についての知識に左右される。つまり、われわれは、それまでの人生で得てきた体験を通して物事を見ている。ここで大切なのは、われわれがそう した見方を正当化する言葉をもっていること、さらに、何が見えたのかを記述し説明する語彙をもっていることである。こうして、人は、あらかじめ用意された 理解の方法をもって人生のさまざまな局面に臨み、何を問題とすべきかを知る。今世紀の精神医療の専門家の多くは、ひとつの理解の方法に依拠してきた。それ は、一八世紀ヨーロッパの啓蒙思想に端を発し、二〇世紀の科学主義に典型的なものである。本書の目的は、この現在支配的な理解方法に批判を加え、サイコセ ラピーの理論と実践に新たな地平を拓くことにある。
今世紀のサイコセラピーの多くは、〈認識主体としての個人〉という前提を指導原理に据えてきた。つまり、自分の住む世界を認識しそれに適応して行動するの は個人だという前提である。もしその人の能力や行動が正常に機能していれば、その人は人生の問題に適切に対処するだろうし、もし適切に対処できないのな ら、その人の能力や行動には何らかの機能不全があると判断される。こうして、適切な対処の模範となりうる人が「科学者」ということになる。科学者こそ、物 事をもっとも鋭く体系的に観察し、厳密で合理的な方法で情報を評価し総合することができる人とされる。科学者は、自分の感情や価値観や不純な動機に左右さ れることなく、観察対象にも影響されずに客観的立場に立つとされる。この〈専門性と客観性を備えた認識者〉というのが、二〇世紀の臨床家たちが自ら描いた 自己イメージである。このような治療者が、慎重な観察と考慮の末に正常と異常についての判断を下す。一方、機能不全に悩むのは一般の人々であり、彼らは専 門家の指示に従うことによって満足ゆく生活が営めるようになるとされる。ここで興味深いのは、科学者としての治療者からみれば、これらの機能不全の原因の 多くは、その人が科学者たちのような〈理想的認識者〉としてふるまえないことにあるとされる点である。かくして、フロイトは欠陥の源となるイドの無意識的 作用を自我(理性)の意識的作用に置き換えようとしたし、ホーナイは患者の持つ基底不安を合理的洞察によって克服することを試み、対象関係論者やロジャー ス派はクライエントが自律的に行動できるように変容する過程を探求し、行動療法家は個人の再学習を促す技術を開発し、認知療法家は個人の意志決定過程を変 更させようとしてきた。
押し寄せる波
本書の読者の多くは、〈科学者としての治療者〉という伝統的な見方に何かしっくりこないものを感じるであろう。それは、ここ二、三〇年の間に、治療者の間 に広まってきた批判的見直しと関係している。モダニスト(近代主義者)と呼ばれるこれまでの立場がさまざまな方面から批判されている。そして今日では、 「問題」を突き止め「治療」を施すといった科学的な改善方法への楽観的信頼はかなり揺らいでいる。ここではさまざまな分野から押し寄せている批判や新たな 模索を詳しく検討することはできないが、どのような不満が出されているのかをざっと見渡しておくことにしよう。

(後略)


あとがき

本書は、Sheila McNamee & Kenneth J. Gergen編”Therapy as Social Construction” の抄訳である。原著は一九九二年に出版されて以降毎年増刷を重ねており、この領域における重要な文献のひとつとなっている。本書の特徴を一言でいえば、近 年さまざまな領域で注目を集めている社会構成主義の考え方と、その臨床領域とくに家族療法における実践的展開と可能性を探るうえで貴重な一冊といえる。

(1) 一九八〇年代の後半から始まった家族療法における大きな変化の波については、ファミリー・プロセス誌などに時折掲載されるちょっと風変わりな論文か ら断片的に窺い知ることはできた。しかしそれらが果たしてひとつの大きな流れと呼びうるものなのか、それとも、相互に無関係な散発的試みなのかは不明で あった。日本の家族療法の世界でも、ホワイトとエプストンの「ナラティヴ・モデル」やアンデルセンの「リフレクティング・チーム」といった考え方が紹介さ れるようになり、それまでのシステム論とはずいぶん異なる考え方が出てきたことは知られるようになっていたが、その全体像を掴むことは困難だった。この大 きな変化の全体を見渡せる視点やその思想的背景が見えてこなかったからである。
しかし、九〇年代になってようやくこれらの動きがひとつの大きな流れとして見えるようになってきた。それを初めてまとめて見せてくれたのが本書だったとい える。その際、キーワードとなったのが「ソーシャル・コンストラクション」である。この概念のもとにさまざまな臨床家や理論家たちが集まって同じ一冊の本 のなかに並ぶことができた。それまで無関係に見えた臨床家たちの密接な関係が明らかになり、彼らの仕事が相互に関連づけられるようになった。また、これら の動きの背景には、解釈学、科学哲学、ポストモダニズムなどの大きな影響があることも明らかになった。
これらの新しい試みに共通する考え方を要約すれば、「現実は人々の間で構成される」ということになる。この前提に立つと、人々が経験している現実とは別に 「客観的現実」を想定できなくなり、いわゆるシステム論と一線を画すことになる。また、「人々の間で」現実が構成されると考えることで、個人の内的構造を 重視するコンストラクティヴィズムとも一線を画す。さらに、そうした現実の構成が言語を通して実践されること、言語が物語の形式を通して組織化されるこ と、この二つの前提を加えることで、社会構成主義の理論的骨格ができあがる。こうした考え方を理論レベルでリードしてきた一人が、編者の一人であるケネ ス・ガーゲンである。彼による社会構成主義の理論的展開と思想的位置付けがあったからこそ、多様な臨床実践をまとめあげる枠組みが用意できたといえるだろ う。
一方、実践レベルでこうした考えをもっとも徹底させたのが、ハロルド・グーリシャンである。ハーレーン・アンダーソンとの共著で八八年に発表された論文 “Human systems as linguistic systems: preliminary and evolving ideas about the implications for theory and practice”[Family Process, 27: 371-393]は、臨床実践に新たな地平を拓いた記念碑的論文であり、これが大きな刺激となって他の臨床家たちに影響していった。ここからは二つの大き な考え方の転換がはっきり読みとれる。ひとつは、集団の力学よりも個人の経験内容への注目であり、いまひとつは、人に対する見方を、情報をプロセスする生 きものから意味を生成する生きものへと転回した点である。そして、治療の場における理解とはクライエントとセラピストの対話そのものであって対話から生ま れた結果ではないということ、すなわら、「無知のアプローチ」に基づく「治療的対話」こそ、社会構成主義の考え方を実践レベルでもっとも見事に結晶化させ たものといえるだろう。本書の冒頭にある献辞はそのような意味をもっている。
また、リン・ホフマンとギアンフランコ・チキンの二人の論文も別の意味で重要である。それは、二人がかつて時代をリードしたシステミック・アプローチの代 表的臨床家であったからである。この二人がいかなる経緯で新しい考え方へと変化していったのかという彼らの「自己物語」を辿ってみることは、同じくシステ ム論に影響されてきたすべての臨床家にとって興味深い経験となるであろう。同様に、トム・アンデルセンの論文にもそのような変化の経緯を読みとることがで きる。また、デービッド・エプストンとマイケル・ホワイトの論文では、彼らが『物語としての家族』(金剛出版)で展開した主張と実践の核心に触れることが できるし、ケビン・マレーのコメントからは精神分析との違いを考えるヒントが得られるはずである。
これらの論考を通して浮かび上がって来るのは、単に新しい理論や技法というべきものではない。それは、ひとつの姿勢、スタンス、構えであることを強調して おきたい。無知というスタンスであり、純粋な好奇心に満ちた構えであり、クライエントから教わるという姿勢である。従来、新しい臨床理論が翻訳され紹介さ れると、「実際にどうすればよいのか」という技法的側面が過度に注目される傾向があった。しかし、こうしたすべてを技術化する「専門家」の姿勢が「問題」 を形成する。このことを本書は厳しく指摘している。マニュアル化することが「科学的」であり「実践的」であるという思いこみをわれわれは一度疑ってみる必 要がある。

(2)次に、本書のタイトル「ナラティヴ・セラピー――社会構成主義の実践」についてふれておこう。原題を直訳すれば「社会的 構成としての治療」というこ とになるがこれではわかりにくい。そこで、本書を貫く最大のキーワードのひとつである「ナラティヴ」あるいは「物語」を前面に出そうと考えたが、なかなか 適当なタイトルが浮かばなかった。そんな折、昨年頃から、「ナラティヴ・セラピー」という呼び方がアメリカから聞こえてくるようになった。原著が出版され た九二年にはあまり耳にしなかった言い方ではあるが、数年の歳月を経てこのような呼び方が一般化し定着してきたわけである。これこそ本書を貫く精神をもっ とも端的に表わすものと考え、これをタイトルに掲げることに決めた。結果として翻訳に伴うタイムラグをうまく利用することになったといえる。そして、もう ひとつのキーワードである「ソーシャル・コンストラクション」を表現するために、「社会構成主義の実践」という副題を添えることにした。
ソーシャル・コンストラクショニズムを「社会構成主義」と訳すことについてもずいぶん議論を重ねた。今年になって相次いで出版された翻訳書が、「社会的構 築主義」(『社会的構築主義とは何か』、川島書店)、「社会構築主義」(『家族とは何か』、新曜社)という微妙に異なる訳語を与えており、さらにわれわれ が第三の訳語を与えることは読者に無用の混乱を招くおそれがあると考えたからである。しかしあえて新たな訳語を採用することにした。
その最大の理由は、本書が議論の対象とするのが、自己や物語や経験だという点にある。「社会問題」や「家族という概念」に関しては「構築」という語がふさ わしいかもしれないが、自己や物語や経験については「構成」や「再構成」という表現の方が自然である。「構築」の語が建築物や構築物といったハードなイ メージを想起させるのに対し、「構成」の語は物語やドラマや番組の構成といったソフトなイメージを想起させる。「構築」が空間的であるのに対し、「構成」 は時間的な意味あいをもつ。本書で検討される自己、物語、経験はすべて時間軸上を変化していくものであり、構成されては再構成されていくプロセスこそがこ れらを形作っている。このようなイメージこそ本書の重要なメッセージのひとつであり、それを大切にするためには、どうしても「構成」の語を選ぶ必要があっ た。
一方、コンストラクティヴィズムとの区別という問題も、もうひとつ頭を悩ませた問題だった。この用語にすでに「構成主義」の訳語が与えられており、それと の混乱が予想されたからである。実際、コンストラクティヴィズムとコンストラクショニズムはアメリカでも相当混乱していたようであり、初めは互換的に使わ れたりしていた。しかし、次第にコンストラクティヴィズムとは異なる立場であることを強調するときに、ソーシャル・コンストラクショニズムの語が用いられ るようになってきた。このあたりの事情は第一章のリン・ホフマンの論文でもふれられている。
したがって、混乱を避けるためには訳語を変えて区別する方が良いのだが、より適切な言葉が見つからないため、あえて同じ「構成」の語を採用することにし た。日本では、コンストラクティヴィズム自体がアメリカほどは知られておらず、両者を区別する必要性がそれほどないと思われたこと、また、どうしても区別 をしたい場合には、「社会構成主義」と言えば済むこともその理由である。
また「社会的」ではなく「社会」としたのは単純な理由による。「社会的」と「社会」という表現の違いから実質的な意味の違いを区別することは困難と思われるので、それならば、より簡潔な表現にすることが実際の使用に際して有利だと考えたからである。

(3)最後に翻訳の具体的作業についてふれておきたい。原著は一三章からなる論文集であるが、訳書ではその中から六本の論文を選んで訳出した。六本に絞った理由は、この新しい思想と実践の核心をできるだけ簡潔に日本の読者に紹介したいと考えたからである。
新しい思想や実践が立ち上がってくるときの常として、それぞれの論者が使う概念や立論には微妙なズレがあって必ずしも一致していない。論者はそれぞれ試行 錯誤の真只中にあり、さまざまな方向へと模索を続けている。なかには明らかに矛盾する立論も見られる。こうした見解の相違やズレこそが思想を進化させる力 となることは十分承知しているが、同時にそれらを一挙に紹介することは、この新しい動きの輪郭をぼやけさせ、焦点を拡散させてしまう危険性がある。そこ で、序章における編者のオリエンテーションを尊重し、その線に沿って議論を展開しているもの、および、論点が重複する場合にはより多くの論点をカバーしか つ明快なものという二つの規準によって六本の論文を選んだ。こうした選択によって、この新しい思想と実践の少なくとも核心部分についてはカバーできたと 思っている。
訳語についてはできるだけ統一をはかった。narrative は「物語」、story は「ストーリー」としたが、論文集という性格上、同じ用語でも論者や文脈の違いによって異なる訳語をあてたこともある。たとえば、discourse は文脈に応じて「言説」または「ディスコース」とし、social construction には、「社会的構成」、「共同制作」、「人々のあいだで形作ること」といった訳語があてられている。また、原著の“ ”は「 」で、原著のイタリックはゴ チックで、原著にはないが日本の読者のために必要と思われた語には〈 〉を用いた。
訳出にあたっては、野口が第一章、第二章、第六章を、野村が序章、第三章、第四章、第五章を担当し、お互いに何度もコメントを重ねて推敲した。訳者が東京 と名古屋と離れているため、二人で直接会う機会は限られ電話での議論が大半となった。長時間にわたる電話で受話器を押しつけた耳が痛くなったこともしばし ばであった。なにぶん新しい理論と実践に関するものであり、また、難解な表現を好む論者や、手紙や会話といった特殊な表現もあって、翻訳に苦労する箇所も 少なくなかったが、二人の知恵を寄せ合うことでなんとかそれを乗り越えることができた。ともに臨床経験をもつ社会学者と人類学者の共同作業はとても刺激的 でスリリングなものだった。まさしく「共同で構成し進化する対話」を重ねられたことはたいへん貴重な経験だったと思っている。とはいえ、まだまだ思わぬ誤 解や不適切な表現があるかもしれない。読者の方々からのご指摘をいただければ幸いである。
最後になったが、議論ばかりでなかなか進まないわれわれの作業ペースにつきあい、辛抱強く待ち続けてくださった金剛出版の田中春夫さん、中野久夫さんにこ ころから感謝したい。また、訳語や本書のタイトルについて有益な助言を下さった小森康永さん、野村のワープロ原稿作成をしていただいた諸富加代さん、この ほか名前は記さないがわれわれの翻訳作業を応援して下さったすべての方々に感謝の意を表したい。
この臨床理論が今後どのような展開をみせるかはわからない。ただ一方で、「物語」という言葉はひとつの流行語のように世間に流通し始めている。われわれが 生きる現実、人生、自己といったものと真剣に向き合うとき、「物語」というメタファーが大きな力をもつことに人々は気づき始めたのかもしれない。臨床家は いま「物語る」という行為についてあらためて見直してみる必要がある。クライエントがもつそれぞれの「物語」をどう受けとめ、どう働きかけるべきなのか、 そして、臨床家自身、どのような「物語」を生きようとするのか、本書がそうした思索の一助となることを願っている。

一九九七年十月

再版あとがき

『ナラティヴ・セラピー──社会構成主義の実践』が金剛出版から出版されたのは一九九七年一二月である。「ナラティヴ」という言葉をタイトルに掲げた日本 で最初の本であり、以後、「ナラティヴ」を冠したものが続々と出版され、書店の本棚の一角を占めるに至ったナラティヴ・ブームの先駆けとなった。その後、 版を重ねながらも、二〇〇五年八月の九刷から増刷が行われていなかったが、ナラティヴ・アプローチの基本的発想と背景を知る上でいまだにこの本の役割は大 きく、復刊を望む多くの声に応えて、今回、遠見書房から復刊の運びとなったことをうれしく思う。
復刊にあたって、訳文を再度検討して、現時点で不適切と思われる表現やわかりにくい表現、表記の不統一などについて訂正をおこなった。たとえば、一九九七 年当時、われわれは、collaborativeを「共同的」と訳したが、その後、「協働的」と訳すことが一般的になっている。また、「精神分裂病」は 「統合失調症」に変更した。このほか、原文ではイタリックで強調している部分を前回は傍点で示したが、今回はゴシックに変えるなどの手直しをおこなった。
このほか、第2章において重大な訂正をおこなった。本章のキーワードのひとつであるproblem-organizing problem-dis-solving systemを、前回は「問題を編成し問題を解決せずに解消するシステム」と訳したが、原著者のHarlene Andersonに確認の上、「問題によって編成され問題を解決するのではなく解消するシステム」と訂正した。前回は、problem- organizingのproblemをproblem-dis-solvingと同様、目的語として解釈していたが、ここではproblemは主語とと るべきであり、「問題が治療システムを編成する」という点に力点があったことになる。
翻訳後十数年を経て、今回久しぶりに全体を通読してみたが、あらためて当時の熱気のようなものが伝わってくるのを感じた。それまでのシステム論的家族療法 の枠組みとは異なる新たな地平が姿を現し、新たな視界を手に入れつつあるという知的興奮のようなものが随所から伝わってくる。それは、まさしくひとつの ムーブメントと呼ぶにふさわしい出来事であったといえる。一方で、この後、家族療法の世界で同様の知的興奮はいまだ訪れていないことにも気づかされる。
現在、ナラティヴをめぐる臨床的関心は、家族療法のみならず、「ナラティヴ・ベイスト・メディスン」(NBM)や、「健康と病いの語りデータベース」 (DIPEx)など多様な展開を見せている。それぞれの力点は異なるが、臨床の場に溢れていながらこれまで軽視されてきたナラティヴのもつ大きな力に注目 する点では共通している。今後、ナラティヴの臨床的意義をより明確にして発展させていくうえで、本書に示された「家族療法におけるナラティヴ・アプローチ 誕生の物語」は重要な示唆を与えてくれるはずである。
本書が新しい読者を得ることで、さらなる理論的、実践的進化につながることを訳者一同願っている。

訳 者


訳者略歴

野口裕二(のぐちゆうじ)
東京学芸大学教育学部教授
北海道大学大学院社会学専攻博士課程単位取得退学
主著『物語としてのケア:ナラティヴ・アプローチの世界へ』(医学書院,2002),『ナラティヴの臨床社会学』(勁草書房,2005),『ナラティヴ・アプローチ』(編著,勁草書房,2009)。

野村直樹(のむらなおき)
名古屋市立大学大学院人間文化研究科教授
スタフォード大学大学院文化人類学専攻(Ph.D.)
主著『みんなのベイトソン』(金剛出版,2012),『ナラティヴ・時間・コミュニケーション』(遠見書房,2010),『協働するナラティヴ』(アンダーソン&グーリシャンとの共著,遠見書房,2013)

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