ダウン症のある成人に役立つメンタルヘルス・ハンドブック──心理・行動面における強みと課題の手引き

ダウン症のある成人に役立つメンタルヘルス・ハンドブック
──心理・行動面における強みと課題の手引き

デニス・マクガイア,ブライアン・チコイン著 (長谷川知子監訳/清澤紀子訳)

定価3,800円(+税)、326頁、A5版、並製
C3011 ISBN978-4-904536-57-5

専門家,家族のための1冊

ダウン症のある人の健康問題は,偏見や思い込みのせいで無視されたり,間違った治療や対応をされたりしています。しかし,問題と思われた症 状や行動が,実は無害な癖にすぎなかったり,むしろ有用な特質であったりするのです。一方で,ダウン症の人が罹りやすい疾患も確かにあり,十 分な注意が払われる必要があります。ダウン症のある人の健康問題を改善するために大切なのは,正しい知識を持ち,丁寧な評価をすることなので す。
本書は,米国のダウン症専門の医療ケアセンターにおける3,000人以上の診療経験から,ダウン症のある成人の強みと課題を集大成したメンタ ルヘルスの手引書です。医療・福祉・教育の専門家や当人の家族,支援者に是非お読みいただきたい一冊です。

本書の詳しい内容


おもな目次

第1部    評   価
第1章 心の健康の評価
第2章 体の健康と心の健康の関連性

第2部 ダウン症のある成人における心の健康の促進と,そこでの課題
第3章 家族と地域社会の支援
第4章 正常とは?
ダウン症のある人たちの「正常」,「普通」,「一般的」行動の理解
第5章 記   憶
第6章 コミュニケーション力
第7章 自尊心と自己像
第8章 独り言,架空の友,空想の世界
第9章 グルーヴと柔軟性
第10章 人生の通過点
「思春期の行動」,孤立,引きこもり,引退

第3部 心の病
第11章 心の病(精神疾患)とその誘因
第12章 心の病の評価
第13章 心の病の治療アプローチ
第14章 気分障害
第15章 不安障害
第16章 強迫性障害
第17章 精神病性障害
第18章 拒   食
第19章 問題行動
第20章 自傷行動
第21章 チック障害および動作の障害
第22章 自閉症
第23章 アルツハイマー病と能力の減退


はじめに

皆さんは,この本を手にして,さまざまな疑問が浮かんだのではないでしょうか。まず,「なぜ,この問題についてそんなに話すことがあるの か?   ダウン症の若者・成人で,心の健康は,百科事典のような手引き書が必要なほど複雑なのか?」と思われませんでしたか。あるいは,「心の健康の問題は避けら れないのか?   知り合いのダウン症の人が完全に健康に見えても,この本を読む意味があるのだろうか?」などと思われたかもしれません。
まず安心していただきたいのですが,ダウン症の人にみられる心の健康の問題は避けられます。それが,この本を私たちが書くことになった理由で もあります。思春期・成人期のダウン症の人の家族や支援する方々に,ダウン症の人の心の健康を効果的に促進し維持する方法を知っていただきた いのです。また,ダウン症の人たちは,気分や感情などの一般的なストレスだけでなく,何らかの生体的な差異によっても,心の健康に問題を抱え やすいのです。この点を専門職の方々が理解して,ダウン症の人が本来持つ能力や人生観を取り戻せるように対処してくださることも望みます。さ らに,ダウン症の人たちに共通な精神障害に間違われやすい無害な癖や,問題解決の有効な手だてにすぎない特性も明らかにしたいと考えていま す。
ただし,私たちの目標はそれだけにとどまりません。ダウン症のある当人が,積極的に良い健康状態の保持に参加してほしいと思っています。健康 とは,病気がないことではありません。身体的,精神的,魂(人生観・生きがいなど)が健康ということです。つまり,日頃から健康の促進を心が け,定期的な健康チェックを受け,問題への早期対応をするプロセスなのです。当人や家族が,より良い健康に向かうプロセスに参加できる(すべ き)と考えるのは当然です。なかには,確かに体や心の問題があって,健康が阻害されている人もいます。けれども,大多数の人たちは今の健康を 維持しようと考え,すべての人たちが,もっと健康になろうと考えることは当然のことなのです。
私たちは,多くのご家族から,問題を「ダウン症候群なのだから」と決めつけられ(またはそれで「片づけられ」),健康問題がいかに無視されて きたかという話を聞いています。確かに,ダウン症の人は,そうではない人の「よく罹る」疾患に罹りやすいだけでなく,ダウン症の人たちに多い 病気や心身の状態もあります。そのような病気や心の問題で健康状態が変化すれば,その人の全状況も変わることでしょう。しかし,変化には,ダ ウン症候群が直接関与するのではなく,当人の健康状態が影響していることが多いのです。ダウン症候群への治療法は立証されていませんが,当人 の健康に関する問題のほとんどが診断も治療も可能です。そのため,変化が単にダウン症候群の特徴と思い込まれてしまうと,診断や治療がされ ず,あらぬ障害につながることさえあるのです。
この見解は,身体と精神,どちらの健康にもあてはまります。本書では,心の健康の問題に焦点をあて,体の健康については,心の健康に関与する ときだけ述べています。

心の健康とは
私たちは「心の健康」を,気分的に満たされ,日常生活の営みやストレスに対処できる状態と考えています。心の健康は,精神障害の診 断・治療をすることだけでなく,当人の生活に関わることなのです。つまり,毎日を楽しく過ごそう,高い目的意識を持とう,日々の活動にできる だけ参加しようと思えることです。このプロセスでは,健康を増進する方策によって最高の効果がもたらされるはずです。方策とは,医療者と行う ヘルスケアはもちろんのこと,理想を言えば日常生活で行われることなのです。
心の健康を増進するには,正常な行動と心の病は一つの連続した状態であることを理解する必要があります。ある行動が健康的でためになっている ようでも,その行動が過度になったり,生きる機能を損なったりすれば,「連続体」の「異常」という方向へ進みます。精神障害には明確な診断基 準がありますが,症状の主観的解釈も確かに幾分はあります。また,周囲から充分な支援を受けていれば,行動が不適応なものになることや不適応 とレッテルを貼られることは避けられるでしょう。心の健康増進策によって,当人の行動のプラスの面を強調し,「連続体」のうち健全な範囲にと どめておくこともできるのです。
前述したように,行動変化のほとんどは「ダウン症候群だから当然」ではないと理解することが大切です。その一方で,ダウン症の人たちには典型 的な強みと弱み,共通の特徴があると理解することも重要です。ダウン症の人の心の健康を最も良い状態にするには,これら相反する二つの考えを 充分に理解していなければなりません。

私たちのことについて
私たち筆者は,イリノイ州パーク・リッ ジにあるルーテル総合病院成人ダウン症センターの責任者です。私たちがセンターで働くことに なった簡単な経緯をお話しすることで,思春期以降のダウン症の人でみられる心の健康の問題に関する私たちの観点をご理解いただきたいと思いま す。
1980年代後半,シカゴ市内の親御さんたちは,成人したダウン症の我が子が質の高い医療および心理・社会的なケアを受けられないことに,い らだちを募らせていました。ダウン症のある我が子の行動に変化が現れると,医療の専門家たちから,それは「ダウン症だから当然」と言われ,何 の治療もされないことがよくあったのです。また,ダウン症の人たちに認知機能の低下があれば,必ずアルツハイマー病の診断名になってしまうと いう懸念もありました。息子や娘がきちんと評価されていないと感じる家族は多く,我が子にダウン症の人たちの医療的,心理・社会的問題につい て理解している医療者の適切な評価を受けさせたいと考えていました。
このような不安を抱えていた親御さんの多くは,シカゴの米国ダウン症協会(NADS)という,国内で最初に設立された親の会に加入していまし た。1991年,協会のスタッフと親御さんたちはルーテル総合病院の管理課に足を運び,ダウン症の成人のためのクリニックの設立を求めまし た。クリニックは,翌年には開設され,当初は月2回,午前に診察が行われました。最初のスタッフには,内科医師(第二筆者),心理・社会学の 専門家(筆頭筆者),そして認定医療助手がいました。筆者の一人デニス・マクガイアは,当時イリノイ大学シカゴ校に勤務し,そこでNADSが 提供した研究奨励事業を受けてNADSと共同研究をしていました。そこで,自身が取り組む心理・社会的問題の原因にはさまざまな疾患が潜んで いることに気づき,クリニックは自身の研究の自然な延長となりました。ブライアン・チコインは,当時,ルーテル総合病院の包括診療研修医プロ グラムの指導員に加わったところでした。知的障害を持つ成人たちの診療経験があり,クリニックの発展に熱心に取り組みました。また,栄養士や 聴覚専門職がいたことも診療に役立ちました。
今日,センターは発展し,現在は終日開いています。これは,NADS,アドボケート・メディカル・グループ,アドボケート・ルーテル総合病院 との比類ない連携による努力の結果です。スタッフには,内科医,看護師(NP),心理・社会学の専門家(Ph.D),認定医療助手(2名), 事務職員,地域福祉の専門家,アドボカシー,研究助手がいます。栄養や聴覚の専門サービスも提供されます。
成人ダウン症センターは,これまで12歳から83歳まで,3,000人を超える受診者を診てきました。センターの利用目的は,主要なヘルスケ ア・センターとして,あるいは特定の問題(心理・社会的問題が最も多い)に対する,年1回の徹底的な評価と定期フォローアップですが,年1回 の評価だけの人もいます。最も遠方の人は,たいてい年1回の評価に来訪します。評価後に揃う詳細な報告書は,健康管理のフォローアップをする かかりつけの開業医のもとで活用されています。私たちが行う面談や診察は年間5,500回以上になります。診察にはチームで取り組んでいま す。特に,心の病が懸念される人にはそうしています。そうすることで,心や体の健康に影響を与える問題はもちろん,健康を(心と体ともに)増 進するすべての問題に取り組めるのです。
本書は,私たちが,思春期以降のダウン症の人たちと家族や支援者のために働きながら得た情報の集大成です。私たちは,成人ダウン症センターを 知識の宝庫と考えています。皆さんから話を聴いて学んだ多くのことを本書に記しました。聴いた話は,他の人にあてはまるのかどうかも確認して います。このようなプロセスを経ることによって,私たちはダウン症の人たちの心の健康と心の病について理解を深めてきたのです。

「二つの症候群」
私たちは,ダウン症の子どもや若者がいる家族から,センターでの話や資料は自分たちの人生経験にあてはまらないようだと言われること があります。確かに,ダウン症の人や家族は皆それぞれ異なるため,そのように解釈されることもあるでしょう。しかし,ときにはあたかも「二つ の症候群」があるかのように思えるためにそうなるのかもしれません。成人したダウン症の息子や娘がいる家族は,現在ダウン症の幼児がいる家族 とはまったく違う経験をしてきました。当時の医療や教育の専門家の情報のせいもあり,家族の子どもへの期待は非常に低いことが多かったので す。また,良いヘルスケアを受けられなかったことも多く,就学・社会参加・娯楽・就職の機会が制限され,存在すらしなかったこともよくありま した。
今では,ダウン症の子どもには早期対応が有益なことがわかっています(Anderson et al., 2003; Guralnick, 1998)。よりインクルーシブで,意欲を促すような学習を行う授業とともに早期対応の有効性が評価されており,小児や若者で成果が上がって います。この若い世代の長期的効果を見るのはとても楽しみです。一般人対象の研究では,就学や教育機会の改善が認知機能低下を抑え,アルツハ イマー病のリスクを減少させることを示しています(Snowdon, 2001; Levinson, 1978)。ダウン症の人たちには,どのような効果を期待できるのでしょう。歴史的に見ると,言語やコミュニケーション力の障害は,ダウン症の人たちの体 と心の健康に大きく影響してきました。幼い頃から言語セラピーを受けている現在の若い人たちの高い能力は,彼らの成人期の健康に影響を与える ことでしょう。自分たちの不安を伝え,話し合い,治療に加われるようになれば,問題の重症度を抑えられるとともに病気の発症も減ると思われま す。
「二つの症候群」という発想は,今は仮説です。けれども,人生経験のまったく異なるダウン症の成人たちの違いを知ることには,大いに関心があ ります。また,私たちは,このようなプラスの経験は年齢の高い人たちにも有効と考えています。つまり,若いときに機会がなかった人でも,遅す ぎることはありません。良いヘルスケアや就労の機会,社会的機会は,センターを訪れる成人の受診者にもプラスの経験となっています。

実例について
本書には私たちが出会ったダウン症の人たちの実例が多く出てきます。個人情報保護のため名前を変え,ときには身元がわかる情報も変え ていますが,問題や解決策は実際のものです。

この章の終わりに
本書を読まれるときは,いつも「ジョー」のことを考えていてください。ジョーは,当センターの健康な受診者の代表であり集大成です。 彼は29歳で,体も心も健康です。ジョーはなぜ健康なのでしょう?   彼の健康に貢献したことを挙げます。

◆ジョーは一個人として受け容れられている
◆選択肢が与えられている
◆適切な期待がかけられている
◆定期的に運動をしている
◆彼に必要な慣習的行動は尊重されているが,柔軟性も奨励されている
◆年1回の健康診断を受け,必要ならば良いヘルスケアを受けられる
◆幼い頃からコミュニケーション力が重視されていた
◆学校教育に職業トレーニングが取り入れられていた
◆長所を生かせる,楽しく励みになる仕事に就いている
◆協力的なコミュニティに属している
◆他の人の役に立つ機会がある
◆自分の宗教コミュニティに参加している
◆(障害のない人たちの)社会に溶け込む機会があるが,障害のある人たちと集う機会もある
◆話を聴いてもらえる,心配事を打ち明けると人々が聴いてくれる

ジョーはこれらの機会を活かし,職場で力を発揮し,充実した社会生活・家庭生活を送っています。端的に言えば,ジョーは健康なのです。私たち は,本書で情報を共有することで,すべてのダウン症のある成人が,ジョーのように健康であるために援助できるよう望んでいます。

**訳注
1) NP Nurse Practitioner ナース・プラクティショナー。米国で最初に作られた資格。主に健康相談やケアをするために,薬の処方,治療の持続のための支 援,話を聴き十分な観察のもとに診断を見立て,簡単な検査もできる看護師として,一定以上の職務経験を積んだ後,大学院で学位取得し試験に合 格することで資格を得ることができる。日本にはない資格だが,検討はされている。(山梨大学大学院 中込さと子教授[看護師,助産師,認定遺伝カウンセラー]より)
2) アドボカシー advocacy/ advocate 自己の権利や生活のニーズを表明することが困難な人に代わり,援助者がサービス供給主体や行政・制度・社会福祉機関などに対して,柔軟 な対応や変革を求めていく一連の行動。(『社会福祉用語辞典』ミネルヴァ書房より抜粋)
なお,アドボケート(advocate)とは,当事者を擁護し,その人の意思を代弁する人をいう。最近,自らの意思を表明し主張する当事者を セルフ・アドボケート(self advocate)と呼ぶようになった。セルフ・アドボケートの育成は重要で,今後が期待されている。
3) インクルーシブ inclusive/ inclusion 1980年代以降,米国の障害児教育において注目されてきた考え方。障害のあるなしに関わらず,また能力にとらわれることなく,あら ゆる児童が地域社会における学校教育の場において包み込まれ,それぞれに必要な援助が保障されたうえで教育を受けることを意味している。イン テグレーション(統合)の発展型ととらえることもできる。(『社会福祉用語辞典』ミネルヴァ書房より抜粋)
137頁のコラムも参照のこと。日本でも福祉や教育の領域でよく使われる語である。


監訳者あとがき

「これこそ求めていた本!」と,2009年に世界ダウン症会議(ダブリン)の会場で販売されていた本書を見た途端,私は心のな かで叫んでいました。早速購入し(どこで手に入れたの? と各国のお母さんたちから聞かれながら),「これはどうしても翻訳しなくては」との強い思いを抱いて持ち帰ってきたのです。

この本の核は,ダウン症の(ある)人への基本的理解です。それがあればどんな場面にも対応できる……ダウン症の人に関わるご家族,関連専門家な ど,すべての方にぜひとも読んでいただきたいと心から願います。
今までこのような本がなかったのは,原著者の方々のような,非常に多くのダウン症の成人とチームで接し,彼らと充分語り合い,彼らの気持ちを測 り,家族や地域の専門家と密に連携し,解決法を探してきた人が他にはいなかったからでしょう。薬の使い方も豊富な知識と経験から解説されているの で,詳しく教えてもらえます。ダウン症候群の特性だけに目を向けるのではなく,そのような特性を備えた立派な個性と自我のある人間であることをふ まえて,治療を一律に行うのでなく,状態と背景を考慮に入れて個別に対応することの重要性が述べられています。これはもちろん医療の基本ですが, ダウン症の人にも同じ考えで応用できることがよくわかります。これは私たちが今まで考え,実施し,主張してきたことでもあります。それも再確認で きました。

この本には,ダウン症の特性から何が「正常」かを知ること,周囲の人との関係性を確認すること,早期対応の大切さ,ダウン症のあ る当人と話し合い (発語がなくても話し合えることも記載)意思決定を支援する重要性などが,具体的な多くの例を通して述べられています(「意思決定支援」は日本で 新たに制定された障害者総合支援法でも明示されています)。このような意識と態度で日常接していけば問題は起こりにくいこと,そしてもし問題が起 こっても,その大半は当人にあるのではなく,周囲の誤解と偏見であることもよくわかります。
遺伝子の作用は生物の基本を作ってはいますが,生育環境や周囲との相互関係はすべての生物にとって重要です。しかし,人間という複雑な存在は,そ れ以上に,「自らの経験」「豊かな感覚や感性」「考える力」「人と関わる力」「社会性」など,人間として必要な能力の育成(心の筋肉とか心のバネ という表現もあります)が幸不幸を左右するでしょう。ダウン症の人は他者の感情や思いに敏感で,これは一般の人をしのぐ有能さです(本書にも記 載)。しかし,誰でも有能であると生きづらくなることがあります。ダウン症の人たちも,この能力が理解されず発揮できなかったり,気づきすぎて苦 しくなったり,配慮過剰で自我の発達支障をきたしたりすることがあります。また,発達のバランスが大きく乱れると問題につながります。家族や専門 家には総合的な判断と適切な対応が求められますが,そのことが本書には豊富な知識と経験から系統的に提示されていますから,ダウン症の人とほとん ど接したことのない専門家でも安心して対応できるでしょう。
なお,本書に挙げられた例について,日本とは違うアメリカの特殊例だと思われるものがあるかもしれません。でも実際にはすでに起こっていることも 多く,また,今後起こることが予測されるものもあります。私たちは,日本の事情と全く異なっている例だけは除きましたが,そういう例はごくわずか でした。

翻訳と監訳にあたっては,最初に清澤紀子氏が全体を通して一貫した正確な直訳をしてくださり,それを長谷川が読み,読者の立場を考 えながら,原著 の趣意を正しく伝えることを常に念頭に置いて意訳にもっていきました。それをさらに二人で何度も校正することで,どなたにも読みやすい本にするこ とを心がけたつもりです。

この日本語版は,次の三人の方がいなければ世に出ることはなかったでしょう。
その一人は訳者の清澤紀子氏です。一言ももらすまいと正確に訳してくださったので,後から安心して編集していくことができました。
最初,翻訳したいという私の願いに応えて,日本ダウン症協会JDS(2013年4月より公益財団法人)の会報で翻訳者を募ってくださったのは上原 公子氏(JDS理事・広報委員長)でした。彼女の呼びかけに清澤紀子氏が応えられ,さらに,三井かおり氏,山田昌郎氏,大西政明氏,大塚彩美氏, 片山徹氏,嶋村泰代氏が協力してくださいました。
遠見書房の山内俊介社長(兼編集長)は,私たちの思いと勝手なお願いに,辛抱強く付き合ってくださいました。さらに,精神科学や心理学関連の本を 多数編集してこられた経験から,貴重な助言をたくさんいただきました。

私たちがよく知らない専門的な記述については,加藤美朗氏(臨床心理士,行動療法士),内山剛氏(神経内科専門医),相原聡美氏(薬の使用に造詣 の深い腫瘍内科医,ダウン症のある女の子のお母様),中込さと子氏(助産師,遺伝カウンセラー)に相談し助言していただきました。
ご協力いただいた皆さまには,この場を借りて厚くお礼申し上げます。

本のカバーには,ダウン症のある成人による自身の仕事中の絵を載せたいと考えていました。たまたま地域の会報に出ていた千野真広さんの絵が目にと まったので,お願いしたところ,快く受けてくださいました。
千野真広さんは25歳,スーパーの鮮魚部でパートとして働いておられ,今年8年目です。最初は未経験のことに戸惑っておられたようで,叱られるこ とも多かったようですが,だんだん要領がわかってベテランの域に達してきたそうです。うまくいかないことがあっても,お母様とスーパーの店長さん などは見守るだけでなく,彼と一緒にじっくり話し合い,常に解決法を見つけてこられました。これこそ心の健康を守るためのポイントなのです。真広 さんは,本を読むこと,絵を描くこと,特にギリシャ神話やモンスターなどの本からインスピレーションを得てファンタジックな絵を描くのが一番の楽 しみだそうです。

本書の1頁目の扉絵に書かれた文字は,西尾遙さんの「思い」です。遥さんも絵を描くのが大好きでした。ところが,遥さんが 働いておられた小規模作 業所が,彼女と無関係なところで方針が変わり,今までのクッキー作りは収益が悪いとやめさせられ,単純なやりたくない仕事に移されて気落ちし,心 を閉ざし,絵も描けなくなりました。しかし,心配されたご両親の努力で,引きこもりにも対応してくれる支援NPO法人に移ることができ,少しずつ 元気が戻ってきました。しかし絵は描かず,その代わり,自身の思うことを文字にされるようになりました。最初は,意味がわからないとお母様は心配 されていましたが,遙さんが楽しそうに書いておられるので心配はやめて,言葉の意味を聞いたり,黙って見守ったりしているうちに意味のある言葉が 増えてきました。まだ意味不明な言葉はありますが,それは意味があっても私たちに理解できないだけなのか,絵のようにイメージで書いておられるの かわかりません。でも,じーっと考えて色や形や配置を決め,楽しそうに喋りながら書いておられるのをそばで見ていると,これは彼女の心の現れであ り,立派な芸術なのだということがよくわかります。

2013年7月  長谷川知子


著者略歴

デニス・マクガイア 
シカゴ大学にて学位,イリノイ大学シカゴ校にて博士号修得。メンタルヘルスと発達障害の分野に29年以上従事。イリノイ州 オークパーク にて妻,息子と在住。

ブライアン・チコイン
ロヨラ大学ストリッチ医科学校にて医学課程を修了。現在勤務するルーテル総合病院 包括診療部門にて研修課程を修了。さまざまな知的障害 のある人たちを30年近く診ている。3人の子の父,イリノイ州アーリントンハイツに家族と在住。

長谷川 知子(はせがわ・ともこ)
慶應義塾大学医学部卒,ドイツに3年半滞在し,ミュンスター大学小児病院研修後,ミュンスター大学人類遺伝学研究所助手勤務(所長は「サ リドマイド警告」で有名なレンツ教授)。帰国後,国立医療センター遺伝研究室研究員(小児科遺伝外来兼務),静岡県立こども病院遺伝染色 体科医長を経て,いでんサポート・コンサルテーションオフィスを開設,現在は数カ所の病院で遺伝外来や臨床遺伝の顧問を担当し,早稲田法 科大学院では「生命科学と法」非常勤講師。公益財団法人日本ダウン症協会理事,および多種多様の障害関連自助・支援団体に協力している。
1972年にドイツで初めてダウン症のある子に接したのが最初の体験で,その後,生まれる前の相談から高齢者まで,何千人ものダウン症の ある人たちとその家族に接し,総合的な専門的支援を行っている。

清澤 紀子(きよさわ・のりこ)
1990年,学習院女子短期大学人文学科英語専攻卒業。株式会社公文教育研究会に勤務後,カナダ留学を経て,グラクソ・スミスクライン株式会社に派遣社員として勤務。その後,フリーランスにて医薬関連の翻訳を行ってきた。

「遠見書房」の書籍は,こちらでも購入可能です。

最寄りの書店がご不便、あるいはネット書店で在庫がない場合、小社の直販サービスのサイト「遠見書房⭐︎書店」からご購入ください(store.jpというECサービスを利用しています)。商品は在庫のあるものはほとんど掲載しています。