社会的事件の法社会学──日本の伝統社会とグローバルな法のはざまで

社会的事件の法社会学──日本の伝統社会とグローバルな法のはざまで

河合幹雄 著

定価1,800円(+税),224頁,四六判並製
ISBN978-4-86616-209-6 C3011
2024年11月刊行

 

2023年に急逝した法社会学者・河合幹雄。2011年から亡くなる前年まで寄稿し続けた社会事件についての考察をまとめた一冊。東日本大震災からオウム事件の結審,相模原障害者施設殺傷事件,座間殺人事件,森友学園事件,カルロス・ゴーン,統一教会の問題など,日本を揺るがすさまざまな事件が起きてきた。社会のあり方が大きく変わる時期に法社会学者は何を考えてきたのか。社会の闇と法の接点を考察する。

「まえがき」大澤真幸
「あとがき」河合俊雄


主な目次

まえがき
バランス感覚と新しい秩序
予想外の第三者委員会の結論に慌てた九電
裁判結審はオウム事件の最終解決か?
死刑制度を残しつつ執行しないのが理想だ
少年死刑確定:誰が反省不十分なのか
警察現場のやりがいを取り戻せ
名張毒ブドウ酒事件とOJシンプソン事件
検察の自浄力には期待できない
反省した裁判官と、正義感なき検察
誤認逮捕・起訴、明日は我が身に
横浜刑務所不祥事の原因と対策
PC遠隔操作事件、裁判官の能力は十分か
若い法曹を合格させてから鍛えろ
原発産業を取り巻く構造に司法のメスを
最高裁は憲法問題で存在感を示せ
犯罪急減の正体──犯罪しない若者たち
悠長すぎる法制審議会、検察の外部コントロールの検討を
死刑囚1割無実なら執行一旦停止は7割―治安の世論調査
ビジョンなき司法取引の導入
犯罪学から見たパリの新聞社襲撃テロ
乱暴な少年法・成人年齢議論と改憲論
起訴相当を出せることが刑事司法改革のポイント
大半は更生する少年犯罪者、少年Aは失敗例か?
調書頼みの終焉を示した東住吉事件の再審決定
予算獲得ルールと連動する刑法犯認知件数
検察に期待せず検察審査会が甘利前大臣を起訴せよ
相模原障害者施設殺傷事件をどう受け止めるべきか
高齢者の万引きは本当に増えているのか(上)
高齢者の万引きは本当に増えているのか(下)
いじめと刑事事件の間にある距離とは
共謀罪から見えてこない具体的な想定犯罪
大阪地検の森友学園事件の追及はどこまで?
座間殺人事件で考える「SNSとの付き合い方」
AV業界とはいかなる業界なのか(上)
AV業界とはいかなる業界なのか(下)
疑わしきは被告人の有利に──最高裁は再審無罪を
報道など二つの点で特異だったオウム7人死刑執行
ゴーン氏の行為は犯罪的、検察は正義感を重視か
ゴーン被告の長期勾留と世界のスタンダード
性犯罪無罪判決、本当の問題点は何か
アメリカの黒人を警察官から守るには黒人を警察官にすればよい
工藤会、解散指示で「悔悛の状」示すか
AV出演年齢の自主規制をする意義とジレンマ
旧統一教会に宗教法人の資格があるのか吟味を
あとがき


まえがき

本書には、法社会学者の河合幹雄さんが、2011年から、63歳で早逝される前年の2022年までの間にWEB RONZAに寄稿した44本の文章が収められている。それぞれの文章では、河合さんが専門的に研究している犯罪や司法に関する時事的なことが話題となっている。
と、このように紹介すると、単行本にして後で読んでもあまり意味がない、と思われるかもしれないが、さにあらず! 時事的な論考でも、深くことがらの本質をとらえている場合には、直接の主題となっている出来事や事件から離れ、時間を経ても色あせることなく、その価値を保ち続ける。ここに収録されている文章は、まさにこのことを証明となっている。
本書の中のどの一本に関しても、私は読みながらこう感じた。ここには「ほんもののプロの仕事」がある、と。
社会現象についての、批評家や学者のコメントや解説の大半が、率直に言えば、「そんなことは素人でも知っている」「その程度なら素人でもおおむね想像できる」という範囲を超えない。あるいは専門家を自称する批評家や学者の見解の多くが、素人のごく素朴な意見とあまり変わらない。
しかし、ここに収録された河合さんの論考に関しては、まったく違う。正反対である。熟達したプロでなくては知らなかったこと、分からなかったことが書いてある。だから読み進めていくと、まさに目から鱗が何枚も落ちるのを実感する。さらに、そうした知見をもとにして導かれる河合さんの独自の見解や提言は、人々の心理の機微や現実の複雑さへの配慮がゆきとどいており、素人の―自分では熟慮し誠実に導いたつもりの―考えがいかに浅はかなものであったかを思い知らせてくれる。
犯罪を中心に見てきた法社会学者としての河合さんのプロとしての力は、おもに二つの源泉から来る。第一に、社会についての統計を解釈するマクロな視点。ほとんどの人は、犯罪などの事件については、マスコミの報道などを通じて個別に知るだけで、統計など見ない。あるいは統計を見たとしても、それがほんとうは何を意味するのか解釈することができない。統計の数値を正しく解釈するためには、そのデータがどのようにとられたものなのか、もとになる質問に対して回答者がどのような心理や意図で答えるのか(嘘や誇張や隠蔽はないのか)、そのデータがどのようにコンテクストや因果関係の中に置かれているものなのか、等々をすべて正確に理解していなくてはならない。そうした理解をベースに、統計数値が何を意味しているのかを解釈できるのが、ほんもののプロである。
第二に、現場に内在したミクロな視点。河合さんは、現場をよく知っている。刑務所がどんなところなのか、少年院でどのように少年たちが教育されているのか、マルチ商法を「信者」にやらせているカルトの幹部はどんな人物なのか、等々をよく知っている。あるいは、見ることができなかった現場に関しても、そこで何が起きていたのかを、たとえば日産自動車のゴーン氏を逮捕する前に最高検会議室で誰がどんなことを話し合ったかを再現できるだけの知識と経験と想像力が、河合さんにはある。ついでに付け加えておけば、河合さんは、刑事施設視察委員やEMA(モバイルコンテンツ審査運用監視機構)の基準策定委員会の委員、AV業界改革推進有識者委員会の委員など、現場を直接監督したり、現場に介入したりする要職も務めていた。



マクロの視点とミクロの視点の両方において洗練されているならば、社会科学者としてはまさに「鬼に金棒」である。では、本書を読むと、どんな「発見」があるのか。それは、「ネタバレ」になってしまうので、ここではあまり書きたくはないのだが、導入のために少しだけ紹介しておこう。
たとえば、犯罪件数。1970年代、日本は治安のよい国だと言われ、日本人はそのことを誇りに思っていた。その頃に比べて、犯罪が、とりわけ凶悪犯罪や少年犯罪は増えていて、治安が急速に悪化している……と、ほとんどの日本人は思っている。が、本書に収録された文章の中で繰り返し河合さんが述べているように、これはまったく事実に反する。凶悪事件や少年事件の数は、70年代に比べて激減しているのだ。そして、日本では、少年の更生率も非常に高い(一度検挙された少年の9割近くが、その後検挙されていない)。しかし、日本人は、事実と真逆のことを信じてきた(河合さんたちが実施したアンケート調査では、凶悪犯罪が大きく減っていると正しく答えられた人は、1、456人中たった1人であった)。
ここから、いくつかの疑問が生ずる。どうして、凶悪犯罪や少年犯罪が激減しているのか? どうして大半の日本人は、実際とは異なることを「事実」だと信じてきたのか? これらについては、この「まえがき」では説明しない。本文で河合さんが論じていることを読みながら、考えてほしい。
いずれにせよ、実際には殺人などの凶悪犯罪が減っているのに、逆のことを信じているということは、単なる認知上の誤りということを超えた問題を含んでいる。われわれは信じていることに即して行動し、対策をとるからである。たとえば、河合さんによると、1970年代と比べて死刑判決は何倍にも増えている。殺人による死者数は半減しているのに、死刑判決だけが増えているのは、おかしなことではないだろうか。
以上は、主としてマクロな視点、つまり統計を正しく解釈することから得られる知見である。今度は、ミクロな視点、河合さんが現場をよく知っているがゆえに合理的に導かれる、われわれの常識を覆す論点を紹介しておこう。
民放が改正され、2022年4月1日より、成年年齢が18歳に引き下げられた。このことが、AVに関しては困った影響をもたらす、と言われている。これまでは、18歳、19歳で出演してしまった女優に対して「未成年者取消権」を行使して、出演契約を無効とし、作品の映像配信と商品の回収ができた。しかし、18歳がすでに成人だとすると、このようなやり方が使えない。そこで、一部の人権団体や立憲民主党は、18歳と19歳に対しては取消権を維持するべきだ、と提案している。まことによい提案だと思われる。
では、AV人権倫理機構(人権倫)―河合さんはこの機構の理事である―は、実際には、どのような対策をうっているのか。AV業界に対して、AVに出演させる女性は20歳に達してからにすることを強く推奨し、例外的に18歳、19歳のAV出演希望者を受け入れる場合には、(女性が高校などに在籍していない等の)いくつかの条件を厳守すべきであると通達した。
しかし、この人権倫の対策は、「未成年者取消権を維持して、事実上18歳、19歳をAVに出演させることを禁止する」という人権団体などの要求に比べると手ぬるい、という印象をもつ。が、河合さんによれば、18歳、19歳のAV出演を禁止してしまうと、少女たちをもっと窮地に追い込むことになるのだ。どうしてか? 理由は本文に書いてある。なるほど、と納得できる、現状に即した合理的な説明がそこにはある。
ここでは、ヒントだけは書いておこう。ドイツでは、2002年に売春を合法化したそうだ。女性の人権を踏みにじる悪法に思えるが、河合さんによるとそうではない。東欧からドイツに流れてくる少女たちが、しばしば売春で生き延びようとする。売春を非合法化しても、この点はすぐには変えられない。ならば、彼女たちが非合法の業者ではなく、せめて合法の業者に雇われるなら、ずっとまともな扱いを受けられるようになる。
これと似たような論理が働き、未成年者のAV出演を禁止しない方がよい、という結論が導かれる。詳しくは本文をあたられたい。



統計に現れる現象を正確に解釈し、同時に現場に内在する視点から事態を繊細に記述する。これが河合幹雄さんの法社会学の特徴である。これによって見出されることは何か。それは、「社会の無意識」である、と私は考える。「社会の無意識」は、河合さんが使っている語ではなく、ここで私が用いているだけだが、次のような意味だ。ときに、個人の行動や心理を観察するだけでは見出し得ない無意識がある。言い換えれば、社会現象のうちにしか現れない無意識があるのだ。これを、仮に「社会の無意識」と呼んでおこう。河合さんは、犯罪や司法にかかわる現象を通じて、社会の無意識を解明しようとしている。私にはそのように見える。
本書に論じられているほとんどのことに関して、そのような解釈が可能なのだが、ひとつだけ解説しておこう。日本の裁判では、有罪確率は99・9%を超えている。つまり、ほとんど100%が裁判では有罪になる。日本の警察や検察が非常に優秀だから……ではない、ということを河合さんは強調している。普通の先進国では、無罪率は、だいたい10~30%なのだそうだ。
有罪率が99・9%だということは、実質的には、有罪/無罪を検察が決めている、ということである。裁判は、検察の決定を事実上、追認するだけで、十分には機能していない。主役は、容疑者を逮捕し、取り調べる警察と検察であって、裁判官は脇役である。検事が有罪か無罪かの実質的な決定者になっていて、勝負は取調室でほぼ決しているので、「判事がかかわる第一審はまるで控訴審である」と河合さんは述べている。見方を変えると、検察官は「ほぼ確実に有罪になるもの」にまで起訴を絞り込んでいるので、つまり十分に有罪との確証を得られないものも含めて多めに起訴して裁判官に判断を委ねるということができないので、ほんとうは犯罪者である者が起訴を免れているということでもある。
この日本特有の現象をどのように解釈すればよいのか? 私の考えでは、この現象は、日本人がある種の権力に対して、無意識の強い信頼を置いている、ということを示している。ある種の権力とは、最も直接的な権力、つまり「悪人」を速やかに摘発し、物理的な暴力を使って「われわれ」の共同体からその「悪人」を排除する権力である。この権力の行使者がまずは警察であり、それをサポートしているのが検察だ。
警察や検察に対して、日本人が並外れた信頼を置いているということは、本来、裁判が何のためにあるのかを考えるとわかる。裁判は、物理的暴力を用いて人を拘束しうる、直接的な権力に対する不信を前提にした制度である。逮捕され起訴された人が、ほんとうに有罪なのか分からない。だから、裁判が独立になされなくてはならない。
言い換えれば、裁判という機能が事実上骨抜きになってしまうのは、直接的な権力を人々は深く信頼しているからだ。あるいは、河合さんの説明に忠実に、次のように言ったほうが正確だろう。人を物理的に拘束することができる直接的な権力、つまり警察や検察が、すでに(有罪か無罪かを決定する)裁判の機能を暗黙のうちに内蔵させているのだ、と。裁判は、検察・警察から独立した制度として十分には機能していない。
そもそも三権分立は、権力への不信を前提にした制度である。河合さんは、フランスの三権分立に関して、「他の権力機関に対して致命傷を加えることができる攻撃的な武器を互いにもつ想定である」と書いている。国民はどの権力機関も全面的には信頼できないので、対等な権力機関が互いに攻撃的に干渉できるようにして、権力への不信を中和させているのだ。日本では、このような意味での三権分立は機能していない。
日本社会では、容疑者として逮捕された段階で、事実上、犯罪者として扱われる。ひとたび起訴されれば、後に無罪判決がでたとしても、社会的に葬られてしまうこともある。どうしてそうなるのかは、(実質的には裁判の機能を内蔵させた)警察・検察の執行権力への、日本人の無意識の信頼によって説明することができる。警察や検察も、国民のそのような信頼や期待を正確に読んでおり、それにおおむね応えてきた。
冤罪があったとき、日本人は、主として警察や検察を責める。だが―河合さんが本文の中で繰り返し述べているのだが―本来の制度の設定からして、冤罪に最も責任があるのは裁判官である。冤罪を防ぐことができたのは、裁判官だ。それなのに日本人は、裁判官よりも警察・検察が悪い、と感じる。どうしてなのか。日本人の(無意識の)期待を裏切ったのは、裁判官ではなく、警察官や検事だからである。
同じ無意識の機制を前提にして働いてきたのが、たとえば政治家の贈収賄の摘発や起訴に関連して重要な意味をもつ起訴便宜主義である。起訴便宜主義とは、起訴するかしないかは、検察が決めることができる、という意味である。
日本は、明治維新以来、欧米から継受した法による統治システムを、日本社会に適応させてきた。が、欧米流の法を、そのまま杓子定規に日本社会に適用すると、困ったことになる。日本では、気持ちを示すときには贈物が必要だし、深い人間関係には飲食がともなうのが常である。このような文化に西洋法をそのままあてはめると、実質のある付き合いのほぼすべてが、一種の「贈収賄」だということになってしまう。
そこで、政治家、官僚、業者の親密な関係の中で、良いものと悪いもの、社会的にポジティヴな貢献をしているものとネガティヴな意味しかもたないものを、慎重に選り分けて、起訴対象を決定するのが、伝統的に検察の仕事だった、と河合さんは解説する。つまり、河合さんによると、特捜部は、法を機械的に適用すれば贈収賄にコミットしていることになる場合でも、良い政治家や良い官僚は意図的に見逃してきたのだ(ここまではっきりと断定できるのも、河合さんが現場の機微に精通しているプロだからである)。
ここですぐに気付くことだろう。起訴便宜主義に則って、政治家や官僚や業者を、良い/悪いと判別し、後者だけを起訴する検察は、共同体の中にいる「悪人」を逮捕し排除している警察と同じような機制で働き、同じような無意識の期待によって正当化されているのだ、と。検察が、事実上、裁判機能をも自らの任務の中に組み込んでおり、政治家や官僚などの特権をもったエリートたちの集団の中で、誰が良く、誰が悪いかを決めることができる。
河合さんは、ここからさらに、今では政党に対して税金から大金が交付され、政治資金規制法も改正されたのだから、もはや「良い賄賂」は存在しえないとして、このようなやり方の歴史的な使命は終わった、と論を進めていく。そして、司法改革で導入された検察審査会は、起訴便宜主義に対抗して積極的に強制起訴すべきであり、合法/違法の判断は裁判官が担わなくてはならない、という主張につなげていくのだが、この議論の詳細については本文で読んでほしい。
私がここで言いたいことは、河合幹雄という法社会学者は、「社会の無意識」の探究者だった、ということである。幹雄さんの父親は、ユング派心理学の泰斗、河合隼雄氏である。本書のあとがきを書いている河合俊雄さんは、父親と同じ臨床心理学者となり、今日のユング派の世界的なリーダーとなった。弟の幹雄さんは、父親とは異なる分野を専攻した。しかし、やはり人間の無意識を―ユング派のそれとは異なった意味での無意識を―研究した。

2024年9月13日
大澤真幸


あとがき

本書は、昨年2023年11月26日に惜しくも63歳で亡くなった河合幹雄がWEB RONZAに寄稿していたものを集めたものである。法社会学者として、安倍晋三元首相の射殺事件と統一教会との関係など、さまざまな社会的事件について、その背景を明らかにしつつ、社会や人間の根本的な問題に迫っている。
本書を貫いている法社会学者としての中心的な視点は、日本の伝統的な社会の仕組みと西洋化、あるいはグローバル化された法制度とのある種対立する関係を捉えていき、それによって社会のあるべき姿を描こうというものである。それは時には、日本の伝統社会のよさを強調し、変な西洋化や西洋の礼賛を否定することになる。たとえば日本ではコミュニティが機能することで犯罪発生率が低く抑えられ、また犯罪検挙率が高く、さらには少年犯罪の更正率が非常に高いことの指摘にそれは示されている。だから警察活動を強めようとか、犯罪を厳罰化しようという議論に持っていってはならないとする。同時に、日本のコミュニティのよさが失われていくなかで、どのように社会や制度を変えていく必要があるかが意識されている。
逆に、これまでの日本的なシステムで機能してきたものを、グローバルに通用するものに変えていく必要性も強調されている。たとえば、海外では起訴されたもののうち10~30%が無罪となるのに対して、日本では検察の起訴したものの99・9%が有罪となる現状が問題であることが指摘されている。つまり、裁判官が判断するのではなくて、検察が有罪か無罪かを決めていて、裁判官はそれに追随している結果になっているというのである。これに対しては、検察審査会などを通じて、起訴が増えて、全てが有罪となる裁判ではなくなり、裁判によって判断がなされる必要性が強調されている。あるいは大きく報道されたときに、裁判官の基準を脇においてしまって世論に押されて厳罰に処すという傾向があることは「ムラの掟」を想起させる悪弊だというのも、日本の伝統的仕組みが残っているまずい例である。
日本の検察の特殊性についての指摘も興味深い。西洋ではそれぞれの行為の違法性が問われるのに対して、日本では政治家や官僚の賄賂などについても、社会にとってトータルには有益な政治家や官僚は見逃されてきたというように、個々の行為ではなくて人についての評価が大切であったという。西洋では、冷戦の終焉とともに、共産主義国に対して国が揺らぐ心配がなくなったために、多くの政治家のそれまでの癒着や不正が暴かれて司法で裁かれたのに対して、それが日本では起こっていないというのも興味深い。そしてそれらの問題が法によって裁かれることを期待するだけではなくて、国民が選挙によって主体的に態度を示す必要性が何回も強調されている。裁判官にしろ、国民にしろ、主体性が問われるようになっていく社会であらねばならないという将来へのヴィジョンが示されているのである。
すでに12刷を重ねている河合幹雄の名著『安全神話崩壊のパラドックス』(岩波書店)と同じように、本書のさまざまな論考も事実とデータによって裏づけられている。京都大学理学部の生物学科で最初学び、どこまでもデータに基づくという理系の訓練を受けたことが、ここでも生かされている。そのためもあって、メディアと報道に対しては、きちんと事実を把握して報道するように度々苦言が呈されているのである。
非行少年の更生に関して、諸外国では少年期の非行が後の犯罪者につながることが多いのに対して、日本での非行少年がほとんど更正することを指摘しつつ、それがなんとか社会適応して、再犯しない安定した生活であって、改心するという世間の期待するものではないことが指摘されている。そして、改心を目ざすなら、本人が追い込まれて精神病や自殺のリスクが生じること、人格改変の圧力によって不安定になって逆に再犯に至る可能性があることを指摘しているのは興味深い。臨床心理学者・河合隼雄の次男であり、こころの闇に取り組んだ父とは異なって社会の闇をテーマにした幹雄にも、心理療法で人のこころが変わることのむずかしさについての理解があったことがうかがわれるのである。
割愛するが、死刑についての見方も説得力があるが、死刑囚について、死刑だからこそ反省を促すのが世話する側の仕事であって、悔い改めて仏さんのようになって亡くなってもらうのが理想であって、それでこそ人間として生まれ変わることができるという死生観が吐露されている。河合幹雄は法と輪廻についての著作を準備していたが、ここにはこの世の表面的なルールを超えた法についての理解の一端がうかがえ、その著作が結実しなかったことを惜しむと同時に、その思想をさまざまな分野で受け継いでいきたいものである。

2024年9月6日
河合俊雄(幹雄の兄、臨床心理学者)


著者略歴

河合幹雄(かわい・みきお)
1960年1月20日,奈良県天理市生まれ
1978年 奈良県立奈良高校卒業
1982年 京都大学理学部生物系卒業
1984-1986年 京都大学大学院法学研究科基礎法学専攻修士課程
1986年 京都大学大学院法学研究科基礎法学専攻博士後期課程入学
1986年 京都大学大学院法学研究科基礎法学専攻博士後期課程退学
1986-1988年 パリ第2大学留学
1988年 フランス国立科学研究所比較法研究所助手
1988年 京都大学大学院法学研究科基礎法学専攻博士後期課程復学
1991年 京都大学大学院法学研究科基礎法学専攻博士後期課程満期退学
1991-1993年 京都大学法学部助手
1993-1998年 桐蔭横浜大学法学部講師
1998-2004年 桐蔭横浜大学法学部助教授
2004-2023年 桐蔭横浜大学法学部教授・桐蔭横浜大学法学研究科教授
2016-2023年 桐蔭横浜大学副学長(-2022年)・学校法人桐蔭学園理事
2023年11月26日,逝去(享年63歳)

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